である。或いは、自然科学者も決して科学的精神に於て一人前であるとは保証出来ないのだから、もっと正確に云うと、科学的精神の欠乏が最も害悪を流しつつあるのは社会・文化・の世界に於てであると云った方がいいかも知れぬ。之が今日の文化の時局的状況なのだ。そこで、この方面に於ける科学的精神の強調と、それに対する反対物の克服とが、文学主義と文献学主義とに対する認識論的批判となる、と私は考えた。之は今日に於ける唯物論的な科学論の時局的な中心課題だと信じたからだ。
 私は併し今、この観点をもう一歩進めて見たいと考える。文学主義・文献学主義・に対する批判を、もう一つ具体的な形に於ける或る現象にまで追跡して、認識論的な拠点を新しく築くことを試みたいと思う。科学的精神に対する教学的精神[#「教学的精神」に傍点]の問題が、夫だ。
 思うに知ると知らぬに拘らず認識論的な一つの立場を意味する文学主義なるものは、最も一般的な包括的な錯誤の体系であろう。之は一切の文化領域について、又殆んど一切の社会の封建的・ブルジョア的・文化について、見出される共通の公式である。文士的文学に於ても、資本主義国の支配哲学に於ても、哲人的
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