料としての文献ではなくて、信仰の・学を修するための・教えを垂れるための・権威であるということは、一切の教学家が口を揃えて唱える処だ。即ち経典とは文献学のものではなくて文献学主義のものなのである。経典が文献学的資料の価値を越えて、教学の権威ある拠典となる時、それが教学に於ける文献学主義というものなのだ。そして文献学主義となれば、夫は解釈の哲学であって現実処理の哲学ではないと云う事を、私は之まで繰り返し繰り返し述べて来たが、そうすれば、文献学主義としてのこの教学が反技術的精神のものであることは、亦必然である。教学に於ては、道徳的・徳育的・な本質が最も大きな支配的契機だが、之を抜きにして、その文献学的伝習主義だけから云っても、之は到底現実の社会的なまして自然的な事物を真面目に処理し得るものではあり得ない。――ただそれを社会的に支えるものは、社会支配者層の観念上の必要だけであって、教学という観念が「国家」という観念を離れては一刻も生存出来ないらしいことは、意味深長なことだ。以て又、この精神の文化時局的な用途の無理からぬ点を理解し得よう。
 教学的精神が最も旺盛なのは、勿論のこと現代の日本に於て
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