、こうした教学主義的教育観がこの問題について暴露する本質的な無能力は、教学なるものそのものが時代的に救い難い代物となって来たことを告げるに余りあるではないだろうか。教学が科学ではなくして、教えと学びとをそれ自身内容とするという教育的自己感応の本性のものであるだけに、教育に於ける教学のイデーの行きづまりは、皮肉と云う他ない。
 かくて教学的精神は発達史的認識の要点を故意に逸するものであり、且つ実証的技術的認識を見事に回避するものだ。そして相手の関心を専ら道徳という框に追い込むものなのだ。もし歴史的認識と実証的精神という或る意味での合理的精神の二面が科学的精神の二つの契機であるなら、教学的精神は科学的精神の、今日の文化時局に於ける正反対物であることが、結論されていいだろう。
 教学的精神の反技術的精神・道徳倫理主義的本性・徳育的本質の弱点は、さきに触れた。その発達史的認識の欠如そのものを、却って教学の歴史観的本性だとして誇称せしめるものは、他ならぬ教学に於ける文献学主義だったのである。教え学ぶのは専ら各種の経典[#「経典」に傍点]についてであり、経典によってである。この際経典は科学的研究資
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