に云えば「宗教改革」)のカテゴリーに這入って来るのだ。
 教学は孔子教乃至儒教で云うように、礼教とも考えられる。つまり既成社会秩序に於ける民衆習俗の設定と保守との道に他ならぬ。ここでは反動的な復古(周公の道への復帰の類)はあっても、進歩的な社会批判は許されなくなる。教学的精神の社会的意義の一端をここに知ることが出来るだろう。
 処がこうした権威と習俗との伝承伝習によって、教学は初めて歴史的[#「歴史的」に傍点]だと考えられているのである。竟り伝承的であるが故に歴史的だというのだ。歴史的発展(「進歩」というフランス大革命前後からの近代人の世界的表象)の故に歴史的だと考えられるのではない。だから之は歴史的精神でも何でもなくて、単に祖宗の伝習の精神であり、従って容易に保守とも復古ともなる処の精神でもあり得るわけなのだ。だからもし民衆の伝統という文化の重大要素が、この教学主義的な操作で操られるとしたら、民衆の不幸はこの上もないことになるだろう。
 教学の精神が実は歴史的精神の反対物であることは忘れられてならぬが、云うまでもなく之は又実証的・実験的・技術的・精神の正反対物でもある。ここに教学の例
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