法を想定するが(そこに科学的精神の教育と専門技術的教育との区別があった)、教育ということが科学自身の内容を規定するのではなくて、逆に、最もよく科学をマスターし得るように教育しようとするに過ぎない。処が教学に於ける教えと学びとは、それ自身教育・育成を以て内容とする。教学的な教育が即ちそれ自身の内容をなすという構造は、教学特に東洋教学の嶄然たる固有特色なのである。
 だが之を以て学と実践との統一とか相即とかと思ってはならぬ。実は単に教えの伝承と伝習とが学びであるというにすぎない。而もこの教えの「学び」は権威あるものなのであるから、批判的検討の自由は原則として許されないし、まして実証的な研究に訴えることは許されないか無意味である。批判的検討の自由に基いた思索は、異端か自由思想家の列に這入るほかなく、実証的研究に訴えようとすれば多くの場合宗教批判[#「宗教批判」に傍点]の形さえ取らねばならぬ。勿論教学の著しい発展期には多少の批判と実証的研究が必ず行なわれる。始皇焚書後の漢代に於ける今文学に対する古文学の功績の如きがそうだが、併しヨーロッパの文芸復興となれば、それ自身すでに「宗教批判」(ドイツ的
前へ 次へ
全25ページ中18ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング