東洋に於ても印度ではなくて支那であり(支那仏教と儒教)、そして最後に、それが現代の資本主義的撞着の真只中に於て有力な社会の文化的支柱となって愈々高められようとしているのは、他ならぬわが日本だけなのである。まことにそういう意味に於て、日本は「東洋文化」の盟主でなければならぬように思える。
で一切の教学は恐らく日本古来のものではあるまい。だが今日の日本にとっては、と云うことは今日の日本の支配的文化、即ち今日の日本の支配者的文化、にとっては、教学こそが伝統的な文化の根柢でなければならぬのである。今日の日本そのものの文化が教学に基いていると云うのではない。日本の支配者文化からすれば、日本文化は教学に基かなければいけない[#「なければいけない」に傍点]、というのである。なぜと云うに、今日科学的精神は日本の支配者文化にとって最も都合の悪いものなのであるが、これに対抗するためには教学なるものが最後の奥行きの深そうな保塁と思われるからである。国民精神・日本文化・国民道徳・其の他は、もはやたのむべき武器とはならぬ。一切は教学という根本精神によって最後の編隊をせねばならぬ。かくて思想局も教学局[#「教学
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