ある。処で娯楽は丁度そうしたものだ。
娯楽は決して幸福の凡てではない、そのほんの一部分にしか過ぎない、而も最も下等な種類に近い幸福でしかない、或いは寧ろ積極的に幸福と呼ぶことさえ出来ないものかも知れない。併し娯楽を入口とし娯楽を通路としない限り、幸福の社会的実現は事実不可能なのである。幸福は或る種の目的であろう、娯楽は之に反して決してそれ自身目的ではない、何かの手段に過ぎない。ただ実際に不可欠な手段であろうと思われるのである。
娯楽は或る意味で、消極的な弁解的な特徴を有っている。暇つぶし、退屈凌ぎ・休息・慰安・というものとごく近い点があるからである。併しこういう種類のものと娯楽との区別が今、大切である。往々娯楽をこういうものとしてしか考えないのが常識であるだけに、益々そうだ。
暇つぶしと退屈凌ぎは大体から云って有閑層での出来事であるというのが常識であるが、必ずしもそうばかりは云えない。閑暇やアンニュイが一種の文化的ポーズになる時は、それが他ならぬ有閑層のイデオロギーになっている時なのであるが、併し忙しい生活の内にも、突如として暇つぶしと退屈凌ぎとの必要を生じて来ることがあるので
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