それだけではない、幸福が個人そのものの幸福でなければならぬ限り、幸福を求める道は必ずしもヒルティのように労働の内ばかりにあるとは限るまい、他の解釈も大いに可能となるだろう。どんな不幸の内にも何かささやかな幸福はあるものだ。殆んど完全な絶望の内にさえ、多くの自殺者の遺書に見られるようなセンチメンタリズムの幸福の閃きはあるものである。死の恐怖がそのまま安心に転回されるという宗教的幸福が存在し得るのも亦嘘ではない(「イワン・イリイッチの死」)。幸福を個人的な観点からつきつめて行けば、こうして観念的な解決の底なし沼へつき進まざるを得ない。而も幸福というものはそういう個人的な観念であることを止め得ない。――ここに幸福という観念の観念性と無力とが横たわる。だからこそ之は単なる要請に他ならぬというのであり、想定以上のものではないというのだ。之を一つの能動的な構成原理として取り出すには不向きに出来ているのだ。恐らく幸福の説が幸福説とならずに多く快楽説となって現われるのもここに関係があるだろう。快楽の方が一つの構成原理として(快楽原理)、幸福という観念よりも適切なのである。
 娯楽はそこで、確かに幸
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