えないのである。だがこういう常識の所有者、否こういう常識の保守者自身、の娯楽能力は別として、こういう常識そのものは正に、前資本主義的な生活の已むを得ない所産であったわけで、今日の娯楽は市民的交通の極度の発達と地方性の喪失とに照応しなければならぬ処の、近代的な観念なのである。農民の祭礼も決して娯楽でないのではないが、近代的な市民の交通関係に相応する娯楽観念の内に、包摂されてしか生き残らぬ娯楽であろう。例えば盆踊りは当局による上からの奨励にも拘らず、全国的に衰微しつつある。多少の復興を見る処もあるのは、それが実は近代的娯楽の意味を受け取っているからに他ならない。
 吾々は今日、近代的な資本主義的(そしてそれから展化する処の社会主義的)娯楽を抜きにして、娯楽を論じることは完全に不可能だ。だが元来民衆を抜きにして娯楽を考えることは出来ない。それが娯楽というものの性質が、慰安や快楽の個人的性質と違う点であることを後に見ようと思うが、今日の一般民衆に於ける娯楽の貧弱さは、一方地方に於ては娯楽の前資本主義的な貧弱さのことであり、他方近代都市生活に於ては、資本制的娯楽そのものの分量さえが大衆にとって微
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