量に過ぎるということだ。要するに今日の日本の民衆は、正常な意味での(近代的な)娯楽を恵まれてはいない。娯楽を知らぬ者は、高級文化の崇拝者たる一群のインテリなどより先に、一般の大衆自身だったのだ。
だから日本では、娯楽についての大衆的な・民衆的な・又云わば民主的な・観念が殆んど発達していない。娯楽は不当に卑しめられ、そして同時に事実に於ては不当に放置されている。こう見て来ると、民衆生活の民主的伸張擁護のために、娯楽が今日何を意味するだろうかが、略々見当づけられるだろう。娯楽なるものは、民主的な課題の一つなのだ。
処が今日娯楽と云えば、民衆に躾けをつけようという心掛けの人間にとってか、そうでなければ民衆の歓心を買おうと心掛けている人間にとってしか、用のない観念であるように見える。飴と鞭とか、それとも飴だけか、の相違しかない。どれも民衆の利用者がもつ処の観念であり、民衆という原料から専ら効用を惹き出そうという側の人間のもつ観念でしかない。で、なぜ吾々が今、娯楽の考察を重んじなければならぬかが、重ねて判るだろうと思う。
古代以来の倫理思想・倫理説・倫理学・を見ると、娯楽を以て道徳の何等
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