平俗な低級なものだとして軽蔑したり叱りつけたりしている、一種の「インテリ」でなければ必要のないことで、大衆はそんなことを云われるまでもなく娯楽の価値はチャンと判っているのだと、そう云うだろう。なる程そうかも知れない。併し吾々という或る一群のインテリ群が娯楽の余暇と娯楽の能力さえをあまり持っていないというのが事実とすれば、その事実は決してこの吾々が「インテリ」であったり民衆を見下す相対的な貴族であったりするがためではない筈だ。実際を云うと、民衆こそは殆んど全く、娯楽の余暇と能力とを奪われている場合が圧倒的ではないのか。
 娯楽というと、前資本制的な反資本主義者は、すぐ様近代都市的消費生活に於ける娯楽のことを考える。デパートやダンスホールなどを考える。そして娯楽の不健全さをそれとなく暗示するのである。農村の前資本主義的生活に於ける娯楽の大衆的な貧弱さが精神作興に打ってつけの健全さに他ならぬとでも云いたいような通俗常識もあるのである。正月、盆、秋祭り、其の他の祭礼、こそが健全な唯一の娯楽で、それ以外のものは百姓達の驕慢を連想させる政治的不吉の兆でしかない、というような徳川政府的常識も未だに衰
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