、それに対する全くの弁解のために、他のもっと気の向く、従ってもっと平均的な一般的な這入り易くて責任の軽い何等かの労働を選択する、ということが、暇つぶしであり退屈凌ぎということである。勿論そういう安易労働に多くの社会的効用を期待することは出来ない。だから之を労働と呼ぶことに引け目はあるが、併し少なくとも一種の活動でないとしたら、暇をつぶし、退屈を凌駕するだけの、能動性さえあり得なかった筈だろう。
だがそれにも拘らず暇つぶしや退屈凌ぎは生活に対して消極的で弁解的なものであることを失わない。之は特殊な或る労働を、任意の安易労働という一般的労働を以て置き換えることを意味するが、特殊労働が当然持っている筈の労働の有用性が失われて、一般任意の労働に振り替えられるのだから、之は否定的で消極的なものであらざるを得ない。依然としてわずかでも労働の形をそなえているという生活の弁解のためのものでしかない。多くは自己弁解のためのものだ。だが精神衛生上、暇つぶしや退屈凌ぎが有っている価値をここで一々評価している暇はない。それは精神の個人的乃至内部的な衛生に関することではあっても、精神の社会的な臨床に直接したこ
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