とではないからだ。
なる程暇つぶしや退屈凌ぎに、娯楽というものを利用するということはある。事実娯楽はこういう消極的な自己弁解の形式に、或る積極的な感興をさえ与えることが出来る。娯楽は社会的に成立した或る特殊な積極的内容を持っているからである。例えばスポーツとか勝負ごととかいう「既成制度」とも云うべき文化形象を有つものが娯楽だからである。だがそうだからと云って、例の二つのものを娯楽自身と混同してはならぬ。暇つぶしや退屈凌ぎは夫々の個人の私事に吸収されている現象で、それ自身では社会的な立体を形づくらないものだ。その意味に於ても、之は消極的だったのである。有閑層の産物であることが往々であるのも、有閑層の生活が社会的労働から縁遠く、社会に於ける積極的な立体性をもった文化形象の一切とから割合離れているからなのだ。娯楽を最も濫用しているものは事実有閑層であるが、娯楽を本当に要求し、従って本当に娯楽というものの価値を理解出来るものは一般勤労民衆でなければならぬ、ということになるのである。
暇つぶしや退屈凌ぎは、まだ何等娯楽にはならぬ。娯楽には生活感の促進を催す処の、あの文化一般の素の味である処の
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