しても、色彩や形の或る通俗的な美しさ[#「美しさ」に傍点]が、芸術的にも意味を有つのである。
 で、芸術の面白さというものが芸術の大衆性・民衆性の不可欠な要素だと考えられる時の、その面白さとは、実は芸術がまず予め外面的な人間的な面白さを備えているということであり、そしてこの面白さがやがて作品の本当の面白さへの案内人となるという、そういう面白さの駅伝組織が与えられているということでなくてはならぬ。まずごく普通の意味で面白いということから惹きつけられて、いつの間にかその作品が有つ特有の芸術的関心へ導かれるという場合、夫が「面白い」作品であり、そして大衆性を有った作品だと云われるのだ。
 芸術の外面的な面白さと云うのは、ごく普通の面白さということだが、之はごく常識的に誰にでも共通の、平俗で通俗な、安易な甘味さを指すのである。最も抵抗の少ない這入り易い、云わば陥井のような魅力が、この面白さでなくてはならぬ。菓子の甘さや、形や姿や色の綺麗[#「綺麗」は底本では「奇麗」となっている]さ、のようなごく低級と云っていいような面白さが、今は大切なのである。こういう面白さは事実極めて民衆的なもので又大衆的なものだが、芸術の民衆性乃至大衆性とは、芸術がこういう面白さの外覆を有っているということでなければならぬ。芸術的真実と云っても、それだけをいきなり鑑賞者におしつけることは、却って芸術的真実を傷つけるもので、つまり難解な芸術に終るのである。それは鑑賞者の甚だ限られたグループの一定の特異な教養に訴えるものか、そうでなければ作家仲間のお互いの間だけで楽屋的な価値評価を要求するような、エチュードやノートや実験室的試案でしかない。之はまだ社会に於ける芸術というものではなく、況して大衆的な芸術ではあり得ない。芸術の具象性や形象化ということも、こういう甘美なアンテナと離して理解してはなるまい。――大きな芸術は民衆的に平俗な面白味を以て、まず一般大衆を捉えるものだ。そして大衆は一旦捉えられたが最後、遂にいやでもその大きな芸術の芸術的な大きさと高さとへ、つれて行かれるものなのだ。そこで初めて芸術の面白さの最後の意味が体得も出来るわけだ。優れた芸術作品はそれ自身の内に、そうした云わば教育制度を有っている。
 芸術作品のこのごく平俗な外面的面白さ、外部的な魅惑、之は或る意味では案外思想的なもので、それはテー
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