内容は、常に社会的に健康な養生的で建設的な積極性を有つものなのだ。宗教など、それが文化を超越すると考えられる時は、同時にその阿片性が最も純粋になる時であることを思い出さねばならぬ。――娯楽は社会生活に於ける建築の一種で、エヤバウエン(Er−bauen)(教慰)し、ビルデンし(教育し教養を与える)、ウンテヤハルテンする(Unterhalten――下から支える)(楽します)ものなのだ。尤も之は言葉の洒落に過ぎないが、併しそこに多少象徴的なものがあろう。

 そこで問題は、芸術と娯楽との関係である。娯楽行為一般としての娯楽、又文化形象としての娯楽、と芸術との関係である。問題は芸術の民衆性・大衆性・に通じるのだ。――芸術の大衆性・民衆性・の一つの不可欠な要素は、つまり面白いということなのだが、併し芸術の面白さの意味は様々であるので、この言葉だけでは殆んど何物をも解決し得ないように見える。文学作品なら文学作品を、読み出すまでの面白さ或いは読み始めの面白さ、と、読み出してから後の面白さとでは、大変意味が違うのである。読書の欲望をかき立てるような作品でも、読み続けて見ると案外退屈であったり、最初は何か偶然な興味で読み始めたのが、途中で止めることが出来ない程惹きつけられたりすることがある。初めから魅力がありそれが終りまで裏切られず続くものも勿論ある。こういう夫々の場合の相違は、面白さというものの意味が読み方の進むに従って変って行くという事実を物語っているのである。之は作品鑑賞の時間の順序にばかり関係があるのではない。云わば芸術作品の表面と内面との関係についても云えることで、表面的・外面的・な面白さと内面的な面白さとの間にはおのずから意味の相違があるわけである。
 仮に芸術の有つ面白さという観念が、それを云う人の個人個人によって別であることを考えに入れなくても、同じ芸術作品の表面の面白さと内部的な面白さとは違っている。そして多くの場合、この内部的な面白さというものは、予め外面的な面白さから引き入れられたという順序の上に立って初めて面白くもなるものなのだ。つまりこの内部的な面白さ、それだけ芸術としては本格的な面白さは、多くの場合、いきなり触れては魅惑を触発しないに拘らず、外面の面白さにつられて内面へ案内されて行くという順序を踏むと、初めてその面白さが素直に判る、という場合が多い。絵画に
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