現代科学教育論
戸坂潤

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【テキスト中に現れる記号について】

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)科学の初等[#「初等」に傍点]教育
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 科学教育という名でさし当り考えられるものに二つの場合がある。第一は科学者養成のための専門教育であり、第二は素養乃至教育としての科学のための云わば普通教育である。専門の科学者となるには先ず科学的素養と教養とが必要であるは勿論のことだし、専門の科学者を教育することや、又専門の科学者が人を教育することを除いては、科学の普通教育は行なわれ得ないから、この二つのものが直接に結びついていることは云うまでもないことだ。
 だが実はこの結びつきに予め注意を払わねばならぬものがあるのである。というのは、一体今日の日本の教育に於て、科学の普通教育が科学者養成の専門教育とどれだけ区別されているか、ということが問題なのである。学校の凡ての生徒が将来科学者になるのではないという簡単な一つの事実だけを見ても、とに角科学者教育と科学普通教育とでは、その直接の目的が違うのであり、従ってその着眼点も違わなければならぬ筈だ。単に、一方がより高級な科学的知識を授けるに対して、他方がより初歩的な知識を授けるというような区別では、事は足りない。いや初歩的ということ、エレメンタールということが、科学にとって何を意味するかが、抑々の問題だろう。夫は必ずしも高級に対する低級という意味で初歩的である、とばかりは云うことが出来ない。寧ろ基本的という意味の場合が少なくないが、科学の歴史的発展や構成を科学論的に論じるに際して、その基本的ということが何を意味するかということが重大な問題だ。もしそうでなければ、F・クラインなどが書いた『初等数学』の類は科学的な価値の低いものに過ぎぬという事になるだろう。又仮に代数学が微積分学に較べて初等的なものだとしても、他方それでは方程式論は変分よりも低級なものだと云えるだろうか。整数論乃至数論は単に初等的なものだろうか。群論やマトリックス理論はどうか。波動微分方程式よりもマトリックスを使った量子力学の解き方の方が、初歩的だということになるのだろうか。
 初歩的又は要素的だということは、それ独自の価値のあることで、高級なものに対する低級なものということには限らない。――処で仮に教養乃至素養としての科学教育(今一時自然科学を考えておくとする)が事実上小学校中学校高等学校其の他の学校で初歩的で初等的な科学を教えることであり、之に反して専門の大学で教授するのが事実上高級な科学的知識であるとしても、つまり前の場合は科学の初等[#「初等」に傍点]教育(?)であり、後の場合が科学の高等[#「高等」に傍点]教育であるとしても、この初等教育はこの高等教育に対比して独自の価値を持っている。
 小学校の児童には小学校児童らしい初等教育が必要なので、その意味では勿論初等教育はそれ自身に独自の価値があるのであり、もしそうでなければ大学の先生は小学校の先生よりも教育家として偉いというような妙な結論になるわけだが、今云うのはそのことではないのだ。科学[#「科学」に傍点]教育自身に於て、つまり科学自身の問題として見て、要するに生徒や学生の年齢其の他の問題としてではなくて云わば科学そのものの利害関係から云って、科学の初等教育(?)は科学の高等教育(?)に較べて独自の価値があると云うのだ。
 一見、普通教育は専門教育に較べてそれ自身の価値を持つものだ、という教育学上の常識のようなものに帰着するように見えるかも知れないが、そして普通教育はこの常識から云っても決して単に初等教育に限るのではなくて、文部省式に云うと、中等普通教育、高等普通教育、というようなものを含むのだが、併し今云うのはそれだけではない。事実中学でやる科学は高等学校の初歩的なものであり、高等学校のは大学でやる科学の予科的なものだという関係があるとすれば、所謂普通教育としての科学教育は、専門教育としての科学教育の、単に初歩的なものに過ぎないということにならざるを得ない。之は多少とも現実の科学教育の事情だと思う。
 普通教育としての科学教育と専門教育としての科学教育とが、言葉や表筆の上では勿論区別され得るような建前になっているとしても、その区別の本当の精神と、その区別の本質的な意義とは、必ずしも充分に注目されてはいないのではないかと思う。寧ろ両者はやや無造作に結びつけられ過ぎているようだ。専門的な学術の縮小版や省略版を授けることが、学術の普通教育だというような感がないとは云えない。この弊はすでに教育の玄人や素人にも拙劣な形で意識されているので、つめ込み主義がいかんとか、画一主義がいかんとか云う場合にここと無関係ではないし、知育偏重がいかんという場合、之を無理に好意的に解釈するとすれば、まずこの辺に落ちつく他はない。と云うのは、科学に於ける普通教育は、科学の専門教育の縮小再生産のようなものではなくて、正に教養乃至素養としての科学教育だ、ということが注目されねばならぬ、と云いたいのであると私は好意的に解釈する。
 教養乃至素養としての科学の教育と、専門技術としての科学の教育とが、夫々独自の役割を持った処の、上下関係とは云い切れない処の、区別に置かれているというわけだが、処が、一体こう一旦区別された教養乃至素養としての科学の教育とは何か、ということになると、又色々のわな[#「わな」に傍点]が用意されているのだ。教養ということについては問題があまり沢山あるから後まわしにして、素養としての科学の教育が、専門学術としての科学の教育と別であるというと、それでは科学の基本的な知識とでもいうようなものをそううまく教え込むことが素養としての科学の教育だろう、ということにもなりそうだ。そうなると、要するに科学について最も要領よく生徒を教える処の教授法上の優秀さに問題は帰着しそうである。例えば或る程度の専門的な記憶力と推理力と、その知識の教授法とを、掛け合わせた数値の一等高い人が、素養的科学教育の最も優れた先生になるというわけだ。自然科学の先生が専門の学識と人格者であることとを要求される、というような事情を少し好意的に解釈すれば、こんな処かも知れない。
 だがこういうようなものは科学教育に於ける師範教育的迷信なのである。素養教育乃至普通教育は、大体教科書を使うことが出来るものだが、処が実は教科書というものほど条件のムツかしいものはないのである。優秀な教科書を書ける人は、実は一流の専門科学者以外にはない筈だ。科学は教科書から出発するのではなくて、教科書が科学的研究の一つの要約でなくてはならぬ筈だからだ。教科書は師範教育的には決して本当の編纂を許さないもので、之は専門の大家の老練な作品でなければならぬ。処でそういう教科書は決して実際に多くはない。大抵の教科書は教科書的マンネリズムの惰性的所産でしかない。そこから、教科書は一般に学術的に無価値なものだというような俗見も発生する。――之は学術研究と学術教育とが別々にバラバラに考えられていることに他ならぬ。而も之は却って、学術の専門教育と普通教育とをダラしなく混合させることから来たのであり、教養乃至素養としての科学教育の独立の意義を充分に認め得ないということから来るのであった。科学的素養の教育と科学的専門教育とは、あくまで区別されねばならぬ。科学と云うものの本性上之が必要なのだ。それが区別されることによって、却って初めて両者の真に生きた連関、お互いに欠くことの出来ない相互条件が見出されるだろう。
 そうしない限り、例えば専門学者が大衆的な教科書をかくことを潔しとしなかったり、科学を教材としか心得ていない先生達が我とばかりに教科書を編集したり、それから素人はどこへ行っても科学はムヅかしいものだというような無責任な常識に安住したりする、こうした日本文化全般に於ける科学的低能性を、是正する方針を立てることは出来まい。

 併し私が最も興味を有つのは、専門科学教育よりも寧ろ、普通科学教育、つまり素養乃至教養としての科学の教育についてである。専門科学教育に関した問題も、この興味の観点から問題にするのが唯一の正当な道だと考える。その逆のコースは事実上色々の無理を産むだろう。専門科学教育の壇上から科学的教養を考えて行くと、一切の衆生は専門家の下に立つ極めて至らない不完全者に過ぎなくなる。夫はまるで現役の将校が、一切の国民を自分の部下の兵卒に過ぎぬと考えるように妙な事で、職業意識の戯面[#「戯面」はママ]なのだが、こういうアカデミシャン意識のカリケチュアは、色々と尤もな形のナンセンスとなって現われるだろう。例えば科学的啓蒙と云えば科学を易しく素人に教えるためのポプュラリゼーションだと思い込んだり(之は何と退屈な通俗化ではないか)、或いは逆にそういうジャーナリズム(!)は科学の敵だと思ったり。――専門の科学という存在がもし民衆のためのものなら(アカデミシャンの神聖文化でないなら)、科学教育の問題は大局に於て素養乃至教養としての科学の教育から考えられて行かねばならぬ。
 予め注意しなければならぬのは、教育という一般的な観念である。夫が素質の掖導であるとか性格の形成であるとか人間性の陶冶であるとか、其の他其の他様々に云われている。併し之は一般の教育についてだ。科学教育では教育はどう考えられているのか。そこになるともうあまりハッキリとした常識は用意されていないようである。処が普通の教育で実際行なわれている処を見ると、少なくとも科学教育は、科学的テーゼを何かの仕方で教え込むことに他ならないらしい。中学校の物理学は割合少数の物理法則を教え込む、高等学校ではもう少し沢山の物理法則を之につけ足す。或いは前者では精々代数乃至三角を使った公式を覚え、後者では微分方程式を使った公式を覚える、と云ったような次第である。この現状には恐らく誤謬はないのだろうが、併しそこから出て来る唯一の常識・科学教育に於ける教育なるものに就いての常識は、要するに既成の科学的成果の若干を覚え込ませるという事だ。それが科学的知識というもので、夫が科学的素養にもなり教養にもなると常識は考えているようである。
 歴史や地理に較べて、中学の物理学などは所謂暗記物ではないとされている。でここでは詰め込み主義は大して信用されていない。ではその代りに何があるのか、推理か、それとも他の何かか。だが科学教育をそういう心的能力という形式的観念から問題にすることは間違ってもいるし流行ってもいないだろう。だがしかし、では中学の物理学は何主義で教えられるか。
 本当を云うと云わば一種の歴史主義(相対主義とは無関係とする)に基くべきものだ。力学の三法則は如何にして発見され如何にして整備されたか、そして夫は誰によってどういう問題を解くべく求められたか。この物理学の主な夫々のテーゼの有っている歴史的な苦心を抜きにして、いきなり出来上ったものをもち出されたら、記憶しようにも合理的な根拠を見出し得ないだろう。勢い暗誦というような無理な形になる。一体暗誦というものはヴェルギリウスかホラティウスの文章でも記憶する時の手段であって、文献学的なものであり、自然科学の精神とは一応別な系統のものだ。
 記憶ということは素養の能力として何より大切なもので、これに就いての認識論的又は教育理論的注目は割合薄いのではないかと考えられる。数学さえ本当の意味では記憶によるのだ。理解の能力と記憶の能力とは平行するのが普通で、理解したものは記憶出来るし、記憶出来たものは理解したものに限るのだ。本当の記憶にはだから、理性に対するクーデーターである暗記などとは異って、合理的な根拠が、心理的で且つ論理的な根拠が、ある。夫が歴史的な来歴・科学発達の苦心の跡、によって与えられる。単に之は記憶の合理的な根拠であるばかりではない。推理・予想・及び科学的なファンタジー(所謂オリジナリティーはここに基く)さえの、合理的な根拠だ。吾々が与えられている物理法則がどの
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