せた数値の一等高い人が、素養的科学教育の最も優れた先生になるというわけだ。自然科学の先生が専門の学識と人格者であることとを要求される、というような事情を少し好意的に解釈すれば、こんな処かも知れない。
だがこういうようなものは科学教育に於ける師範教育的迷信なのである。素養教育乃至普通教育は、大体教科書を使うことが出来るものだが、処が実は教科書というものほど条件のムツかしいものはないのである。優秀な教科書を書ける人は、実は一流の専門科学者以外にはない筈だ。科学は教科書から出発するのではなくて、教科書が科学的研究の一つの要約でなくてはならぬ筈だからだ。教科書は師範教育的には決して本当の編纂を許さないもので、之は専門の大家の老練な作品でなければならぬ。処でそういう教科書は決して実際に多くはない。大抵の教科書は教科書的マンネリズムの惰性的所産でしかない。そこから、教科書は一般に学術的に無価値なものだというような俗見も発生する。――之は学術研究と学術教育とが別々にバラバラに考えられていることに他ならぬ。而も之は却って、学術の専門教育と普通教育とをダラしなく混合させることから来たのであり、教養乃至
前へ
次へ
全20ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング