無理に好意的に解釈するとすれば、まずこの辺に落ちつく他はない。と云うのは、科学に於ける普通教育は、科学の専門教育の縮小再生産のようなものではなくて、正に教養乃至素養としての科学教育だ、ということが注目されねばならぬ、と云いたいのであると私は好意的に解釈する。
教養乃至素養としての科学の教育と、専門技術としての科学の教育とが、夫々独自の役割を持った処の、上下関係とは云い切れない処の、区別に置かれているというわけだが、処が、一体こう一旦区別された教養乃至素養としての科学の教育とは何か、ということになると、又色々のわな[#「わな」に傍点]が用意されているのだ。教養ということについては問題があまり沢山あるから後まわしにして、素養としての科学の教育が、専門学術としての科学の教育と別であるというと、それでは科学の基本的な知識とでもいうようなものをそううまく教え込むことが素養としての科学の教育だろう、ということにもなりそうだ。そうなると、要するに科学について最も要領よく生徒を教える処の教授法上の優秀さに問題は帰着しそうである。例えば或る程度の専門的な記憶力と推理力と、その知識の教授法とを、掛け合わ
前へ
次へ
全20ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング