いのだ。
しかしそんな一般的なものは、所謂科学教育[#「科学教育」に傍点]とあんまり離れすぎていて、お話しにならぬではないか、と云うかも知れない。処がこの科学的精神が実証されている処、否実証され得る筈の、一等間違いのない領域は、所謂「科学」の世界であり、特に自然科学の世界だという事実を見落してはならぬ。事実上自然科学が科学的精神の保塁の守備者なのだ。処で併し、だから科学だけが科学的精神を持てばよいのだとか、科学者だけが科学的精神の専門家だとかと推論してはならぬ。今日の日本などで最も大事で必要なのは、寧ろ社会の歴史の認識に於ける科学的精神だ。そこに科学的精神があれば、この認識は科学になるし(社会科学・歴史科学)、それがなければこの認識(?)は認識にもならぬ。科学であるかないかを決定するのはこの科学的精神であって、その逆ではない。所謂科学も之によって初めて科学という名誉を持っているのだ。芸術も亦一種の条件を持った認識なのだ。観察というものがどういう役割を持つかを見れば、夫はわかるだろう。之は科学ではなくて芸術だ。それにも拘らずその精神は科学的であることを必要とする(必ずしも良い例ではない
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