が例えば寺田寅彦博士の物理学と随筆とを見よ)。真理の組織的な探究が必要なのだ(グルモンの評論などを見ると、科学的精神なるものがどれ程普遍的なものであるかが判ろう。而も之はほんの一例に過ぎないのである)。
自然科学の専門家が、一歩その専門外に出る時、全く非科学的になり勝ちだということは、方々で指摘されていることである。自然科学の専門家は、職業的には専門家であるにも拘らず、科学的精神という一個の人間認識の遂行者としては必ずしも老練家でないことを、之は告げている。専門的科学教育の優等生ではあっても、教養としての科学教育の落第生に他ならぬというわけだ。いや専門の科学に就いてさえ、今日専門科学者の皆が皆まで徹底的に科学的であるとは云えないようだ。つまり中学生の或る者が偶々物理や化学が好きだというのと同じ内容が、彼等が専門の科学者であるということの人間的実質だ、という場合さえあるのである。
科学的精神というものはごく一般的なもので、決して科学者の専売ではない。ただ科学教育とは、この科学的精神を、所謂「科学」に就いて誘導開発するものの謂いだというのである。従って所謂科学教育[#「科学教育」に傍点
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