程度に確かなものか、どういう異論に出会いつつあるか、つまりどの程度の疑問の余地のあるものか、そういうことを抜きにされたただの教材では、棒暗記の他はなくて、それから何等の想像を産むことも出来ぬ(この想像力は探検の精神に近いだろう。探検も亦一つの科学的精神の発露である。地理や博物や歴史の興味がここに関係している)。
で、物理学なら物理学の現下の諸テーゼが、歴史的にどういう来歴があって今日に至っているか(例えば一体純実験的に出されたものか理論的に導かれたものか)、今日どういう時代的条件におかれているか、そして今後どういう発達の余地を見出しそうか、という知識が物理学の素養[#「素養」に傍点]の内容になるべきなのだ。この歴史的[#「歴史的」に傍点]認識は同時にこの諸テーゼの技術的社会的[#「技術的社会的」に傍点]認識にも直接している。今日の社会に於ける技術上の実際問題にどういう関係があるか(直接なければないということが又一つの重大な規定になろう)が判って、初めてその真理性が判る[#「判る」に傍点]のである。「実際教育」とか「実業教育」とか云うが、夫がもしこういうことでなければただの政治屋的片言
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