問題を持たぬから、探究心も生じなければ従って興味も生じはしない。――科学的精神[#「科学的精神」に傍点]・科学的識見[#「科学的識見」に傍点]は決して養われないのである。
尤も私は観点を明らかにするために、事情をわざと或る程度誇張して描写する。皆が皆までこうだと云うのでもなければ、又この通りの場合が沢山あると云うのでもない。併し私の云い度いのはこの科学的精神・科学的識見・に就いての検討が、科学教育に於てハッキリしていないという点に集中するのである。科学普通教育としての素養・教養・教育の問題はここに焦点を有っている。
男の中等学校には物理や化学の好きな生徒が多い。彼等の興味は勿論大切である。興味がない生徒に何を強いても、夫が興味自身を作興するに成功しない限り、まず無益だろうからだ。だが彼等のこの興味をあまり高く評価することは要心する必要があるだろう。彼等は物理や化学の書物や書式や実験装置や実験的行動や、つまりそういう科学的な風物に審美的に感動することも出来るのだ。又偶々夫が成績の上で得意であるというだけで、好きにもなれるものだ。興味がなければ駄目だが、併し興味を有つ者が皆真に科学を愛していると即断することは出来ぬ。物理や科学が一人前以上に出来て、一人前以上の興味を有っていた中学の秀才も、二十年も経つと多くはどこかの県庁の部長などにおさまっているというような世情を参照すべきだ。問題は科学的精神である。横好きではなくて理解から来る科学への尊敬、要するに自然科学なら自然科学が探究する真理に対する尊敬、ということだ。自然の観察・考察・と之とは深い関係がある。こういう心情を誘掖することが、普通教育としての、素養・教養としての、科学教育の第一条件だろう。
但し科学的精神というと実は漠然としすぎている。自然科学に就いての深い興味も科学的精神ならば、一般に社会科学や哲学や又文学についてさえの関心も、科学的精神だろう。今まで云って来たのは、前者の方だ。するとただ科学的精神・科学的識見・というのでは困るようだ。だがその際問題は科学的精神にあるのではなくて、素質の如何によって生じて来る科学的精神の区別にあるのである。科学的精神は一つの人間的教養の問題であり、人類の素質の問題だ。之を欠いたなら詩人になろうと政治家になろうと、ロクな奴にはならぬ。だが素質の方は或る限度まで先天的なもので、
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