程度に確かなものか、どういう異論に出会いつつあるか、つまりどの程度の疑問の余地のあるものか、そういうことを抜きにされたただの教材では、棒暗記の他はなくて、それから何等の想像を産むことも出来ぬ(この想像力は探検の精神に近いだろう。探検も亦一つの科学的精神の発露である。地理や博物や歴史の興味がここに関係している)。
で、物理学なら物理学の現下の諸テーゼが、歴史的にどういう来歴があって今日に至っているか(例えば一体純実験的に出されたものか理論的に導かれたものか)、今日どういう時代的条件におかれているか、そして今後どういう発達の余地を見出しそうか、という知識が物理学の素養[#「素養」に傍点]の内容になるべきなのだ。この歴史的[#「歴史的」に傍点]認識は同時にこの諸テーゼの技術的社会的[#「技術的社会的」に傍点]認識にも直接している。今日の社会に於ける技術上の実際問題にどういう関係があるか(直接なければないということが又一つの重大な規定になろう)が判って、初めてその真理性が判る[#「判る」に傍点]のである。「実際教育」とか「実業教育」とか云うが、夫がもしこういうことでなければただの政治屋的片言に過ぎない。だがこうなって来ると、今日の普通教育に於ける科学教育から見れば、まるで夢のようなものだろう。だが之が夢である限り、素養教育・教養としての科学教育の、原理はどこにも見出せないだろう。依然として、専門教育の師範教育的縮小逓減再生産に止まる他ないだろう。
この現状で一等悪いことは、生徒が科学に就いて何等の疑問を持たぬ、ということだ。と云うのは事実教科書は、科学が何か全く完成したかのような風に書いている。科学は何等の隙もない完璧なものになったように報告されている。従って之を学ぶ者は本当の意味での問題[#「問題」に傍点]を見出すことが出来ない。生徒にとって問題と云えば試験問題でしかなく、本当の問題は封じられている。今日の生徒の大多数は自然科学の学課についての問題と云えば、試験問題だと思っている。処が試験問題というものはすでに解決ずみのもので、実は問題でも何でもないのだ。之は自然を検討する問題ではなく単に生徒を検討する浅墓な教育手段に過ぎぬ。科学を学んで、科学の「問題」を知らぬと云うことは、恐るべき冒涜だ。自然と人類とに対する恐るべき冒涜なのだ。本当に問題を持たないから、稚拙ながらも
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