凡ゆる人間に凡ゆる素質を要請することは無論出来ない相談だ。自然科学的直覚能力の秀でた生徒は、この科学的精神をば自然科学への興味の形で育てるのである。
 博物学的な直覚とか、物理学的直覚とか、化学的な直覚とか、数学的直覚とか、という区別を便宜的に仮定してもいいだろう。読書的な理性と観察的な理性のタイプを区別してもいいだろう。とに角素質とその発達としての性向の区別がある。だがこの区別にも拘らず、一般に科学的精神の形成は、最も大切な科学教育なのである。大体に於て素質が専門を択ばせる、少なくとも成功した選択ではそうだ。だが今は専門としての科学の教育の話ではなくて、教養としての・素養としての・科学の教育の話だった。するとつまり、この科学的精神なるものは、所謂「科学」にだけ固有な精神ではなくて一切の事物に就いての科学的態度を意味するのであり、まして自然科学にだけ固有な精神ではない、という事になる。科学の広範な意味は所謂「科学」から一切の芸術的認識を含めての、認識[#「認識」に傍点]ということだ。科学的精神の訓練とは、要するに認識――実在の反映[#「実在の反映」に傍点]としての――の訓練のことでもいいのだ。
 しかしそんな一般的なものは、所謂科学教育[#「科学教育」に傍点]とあんまり離れすぎていて、お話しにならぬではないか、と云うかも知れない。処がこの科学的精神が実証されている処、否実証され得る筈の、一等間違いのない領域は、所謂「科学」の世界であり、特に自然科学の世界だという事実を見落してはならぬ。事実上自然科学が科学的精神の保塁の守備者なのだ。処で併し、だから科学だけが科学的精神を持てばよいのだとか、科学者だけが科学的精神の専門家だとかと推論してはならぬ。今日の日本などで最も大事で必要なのは、寧ろ社会の歴史の認識に於ける科学的精神だ。そこに科学的精神があれば、この認識は科学になるし(社会科学・歴史科学)、それがなければこの認識(?)は認識にもならぬ。科学であるかないかを決定するのはこの科学的精神であって、その逆ではない。所謂科学も之によって初めて科学という名誉を持っているのだ。芸術も亦一種の条件を持った認識なのだ。観察というものがどういう役割を持つかを見れば、夫はわかるだろう。之は科学ではなくて芸術だ。それにも拘らずその精神は科学的であることを必要とする(必ずしも良い例ではない
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