的、文化史的、意義を適切に正確に計算しないことから生じる。近代産業を何かの意味で、単なる技術というものに還元して了い、産業の持つ社会生産機構の問題を抜きにして了うものだから、その場合の技術的精神が、あまりに厭世的なものになるかと思うと、あまりに享楽的なものになるのだ。
 同じ近代産業と云っても、之を社会生産機構に於て見る限り、資本主義的近代産業であるか否かが、根本的な特色であることは、知れ切ったことだ。技術的精神も亦、それがどういう社会生産機構上の特色を有った産業と結びつけて考えられるかによって、色々に考えられる。之を資本主義的産業にだけ結びつけて考える限り、技術的精神は行きづまりの精神としてしか現われない。之が例の技術終末観である。これを免れるための最も簡単な方法は、近代産業を社会機構そのものと独立させて考えることだ、つまり之を純然たる技術自体と見ることだ。そうするとそれが、例の技術福音説となる。だが、本当を云うと、技術的精神は、近代産業発達[#「発達」に傍点]の精神でなくてはならぬ。即ち近代産業が資本制的な行きづまりを社会機構上打破して前進することに於ける、その社会的技術発達の精神でなくてはならぬのだ。こうした技術発達[#「技術発達」に傍点]の顕著な客観的条件が熟していることこそが、最も健康な意味に於ける近代性ではないだろうか。近代の資本制産業の莫大な発展が、そういう近代性を創り出した。所謂モダーニズムは(カトリックのモダーニズムと共に銀座のモダーニズムなども論外として)この近代性という照明の影に過ぎない。
 技術的精神は近代性という健康な照明である。光である。光というものは文献によると色々の神秘的な(ヨハネ福音書的な)ものから、神秘論的(ベーメ)な又形而上学的な意義(シェリング)をまで有って来ている。だが一方それが文明(エンライトメント・リューミエール)や啓蒙(アウフクレールンク)の観念にまで変って来たのは、勿論近世、特に近代である。それは近世ブルジョアジーの創造である。処が之は今日ではもはや単なるブルジョアジーの精神などではない。ブルジョアジーはすでに技術的精神について自信を失って了った。わずかに小市民のテクニシャン達の一握りが、多少感傷的な技術礼讃をやっているにすぎない。今日技術的精神を真に信頼し得ているものは、プロレタリアの文化であるというのが、事実であ
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