る。もし近代文明の薄暮を黎明に乗り替え、そして「もっと光を」と云うならば、技術的精神こそそれに答えるだろう。近世以来のユトピスト乃至ユトピア社会主義者の多くが、科学の王国を夢みたことは偶然ではない。彼等の多くは技術的精神の先駆者だったからである。カンパネラやF・ベーコンやサン・シモン等が、大なり小なりそうだった。尤もだからと云って、H・G・ウェルズなどが本当の近代精神だと云うのではないが。

 だが一体、技術的精神とはどういう内容の精神なのか。私は之を科学的精神の半面だと考える。今ここで科学(特に自然科学)と技術乃至テクノロジーとの根本的な連帯について一般的な言葉を費す必要はないだろう。科学の発達が技術の発達を結果するのか、それとも技術の発達が科学の発達を結果するのか、どっちであるかというような問題は、そのままの提出の仕方ではあまり意味があるとは思われない。分析が面倒になって、両者の相互作用だなどと片づけて了うのは、勿論問題の解決ではない。要点は科学(特に自然科学だが)をば、云って見ればラボラトリー的規模に於て観念するか、それとも社会的規模に於て考察するかである。つまり社会的所産の一環として科学を考えるかどうかである。直接現象として科学を考えるかどうかである。直接現象としては科学と技術とは勿論交互作用を営んでいるのであるが、社会的生産機構の文節から考えて行くと、科学が技術によって終局的に限定される[#「終局的に限定される」に傍点]という公式は、動かすことが出来ぬ。
 こう云うと、科学的精神というものこそ技術的精神に帰着すべきものだ、ということになる。一応それでもいい。だが考えなくてはならぬのは、ここで技術的精神というのは決して技術の精神や技術学の精神などではない。正に文化[#「文化」に傍点]の精神を云い表わすものだったのだ。そう考えれば、寧ろ技術的精神は科学的精神に帰着すると云った方が、視野が開けるわけで、技術的精神は科学的精神の半面であるということになる。
 科学的精神については、今日方々で論じられている。大体の成果を纏めて云えば、科学的精神は第一に実証的な精神である。或いは実験的な精神だ。第二にそれは合理的精神とされる。理性的推理の精神であり、つまり論理的精神である。田辺元博士はこの二つの規定を以て、相反する二つの契機と見做す。実験と理論との対立、経験論と合理論
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