ければならぬわけではないのである。西洋文明の没落という現代の挽歌的ミトスが、このような説にエキゾティシズムか倒錯した郷愁かの響きを与える。実は資本制下に於ける技術の過剰と呼ばれている資本と技術との矛盾の現象、つまり資本制下に於ける技術自身の矛盾、又同じことだが、資本制自身が技術について生ぜざるを得ない自己矛盾、という現象を、簡単に原稿紙の上で片づけて了おうとするものが、この種の現代文明論であり、又その意味に於ける「技術の哲学」――之は実に沢山出版されている哲学書のジャンルだ――の大方なのだ。悪いのは資本主義の機構自身ではなくて、技術であり、技術的精神だ、というのである。
こういう技術の悲観説と終末思想とに反して、陽気なのはテクノクラシーなどの技術楽天説である。極端な例は資源を凡てエネルギーに換算し、このエネルギー計算の技師としての技術家が経済と政治とのブレントラストを組織せねばならぬ、という。勿論テクノクラシーの祖先と云われる経済学者ヴェブレンは、そういう安易な結論は出していない。そんな結論を惹き出したのは、半技術家で半文明評論家である若干の文化的野次等でしかないが、技術的精神の近代性を強調したまずい[#「まずい」に傍点]例として、意味があるのである。一体この技術楽天説は、アメリカ辺の若干の産業上の楽天説に由来しているのであって、フォードの「わが産業の哲学」などに於ける技術礼讃主義(フォード自動車の偉業は自動車を競争用の玩具から解放したことにあると彼はその『わが生涯と事業』の内で云っている)は、例の多量規格生産による低価格高賃銀主義が可能な範囲に於て可能なのであり、この産業上の楽天説が可能である限り、技術楽天説も可能であったわけだ。だが他方に於て、アメリカ自身に於ても、機械を使わずに、人力を以てワザワザ手数を掛ける土木工事が、失業救済のために必要であるという珍説さえ生じることになると、この楽天説は単に偶然現実性を羽織った処の、「哲学」にすぎぬものとなって了わざるを得ない(私は今ここで、大河内氏流の農村工業化論と「科学主義」工業説とを検討する余裕のないのみ憾みとする)。
だがいずれにしても、技術悲観説=技術終末説も、技術楽天説=技術福音説も、云って見れば技術的精神をば近代産業にまだ十分に関係づけて考えない処から来る予言に他ならない。と云うのは、近代産業がもっと文化
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