最大公約数的に考えるなら、それは必ずしも近代精神だけを特色づけるものでもなければ、それだけを支配するものでもない。こういう点から云って、寧ろ私は、この精神が古来人類文化の指導的な機動力をなして来たということをさえ、色々と実証出来ると考える。そしてこの見方は、抑々根本的に云って重大なもので、技術的精神の精華であるということを結論するためにも、この近代精神が人間文化の歴史の必然的な目下と将来とに対する成果でなくてはならぬ以上、根本想定とならねばならぬ。尤もそのためには従来の文化史や哲学史、又科学史や技術史自身さえをも、多少書き直す必要があるのであって、今ここに手短かに実証して見せるわけには行かぬ。之は今後の歴史家の大きな革命的課題の一つとなるだろう。だがそれはそうとして、併し技術的精神が特に近代文化の精神を代表するということは、之を最大公約数的に一般化して考える限り、必要な限定をまだ欠くのであり、他方又、必ずしも歴史的事実の一つ一つの実証を改めて俟つことなしにも、歴史叙述の原則に関する之までの常識によって、大体見当のつく関係でもあるのである。
と云うのは、技術的精神が最もハッキリ現われ始めたのは近代以来であるということは、断わるまでもない根本事実であって、之は正しい、近代産業の発達と支配との平行することは、誰知らぬ者もないからだ。するとつまり、技術的精神が近代文化のイデーを特徴づけるものだという提言は、近代産業が近代文化の特色を決定するものだ、という提言に帰着するわけだ。
近代文化が近代産業(産業革命後の工業を中心とする)によって決定されるということは、之亦ただの常識として広く知られていることであり、そうであるらしいのだが、併しこの思想をめぐっては色々の問題が議せられているのであって、必ずしも簡単に判り切っている関係ではない。例えば或る種の文明評論家によると、技術的精神乃至技術の精神は、単に欧米の近代文化の精神に過ぎないのであって、必ずしも近代世界全体を支配しつつあるものでもなければ、そういう権限のあるものでもないという。東洋精神(彼等は之を勝手に妙な神秘主義と考えるのだが)は技術的精神と異なったものであり、それが今後の近代文化(?)の新しい主人となるだろう、ならねばならぬ、とも云う。
これによると技術的精神はヨーロッパ人の皮膚の白さと同じようなもので、何も白くな
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