を取っておかなかったばっかりに、アメリカの有志達にラジウム会社からラジウムを買って貰わなければならず、そのお礼に、アメリカ中を見世物のように巡行しなければならなくなった。併し夫人は、之でいいのだと清々しく諦観しているのである。
 人類のために解放した筈のラジウム製造のパテントが、アメリカの会社の利潤の源となったことは可なり遺憾とすべきで、ここにも問題はあるのであるが、私がヒントを得たのは、寧ろ他の点だ。即ちキュリ夫妻がアメリカのラジウム会社創立者のために、実験室に於けるラジウム製造の過程をそのまま細かく書き送ってやったことである。
 之は一面に於ては全く、学術上の報告論文の発表であろう。処が他面では、それがそのまま所謂産業技術の公開というものである。この一致は、偶々ラジウムという新元素の発見=製造の場合であったから、成り立ったのではあるが、併し又偶々、所謂科学と技術との直接の結び付きを、改めて示唆するように思われた。
 ラジウムの製造[#「製造」に傍点]がなければ、ラジウムの発見もなければ放射能の研究も十分の意味を得なかったわけで、科学の実験的研究なるもののクライマックスは、何と云って
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