、原則的に云えば、鍬と鎌と鋤と……を並べれば即ち農業技術だというナンセンスである。体系といい社会的体系と云うが、そういうそれ自身不定なものは「定義」の役には立たない、のみならず、言葉自身によって決定される(即ち形式上)の定義は、抽象化された数字に於てしか許されないものだ。
物[#「物」に傍点]では都合が悪いというので、例えば三枝博音氏などは(『日本技術史』)「過程としての手段」と規定した。之は物の代りに作用のような過程[#「過程」に傍点]を導き入れた点に工夫を見せているが、併し単に手段というものにまで技術を一般化したので結局例の「技術の哲学」式の第三領域[#「領域」に傍点]、目的論的世界[#「世界」に傍点]へ逆もどりする。即ち「限界領域」と氏自ら称するのである。技術を物説と過程説との折衷によって捉えようとしたのは相川春喜氏(『現代技術論』――今日吾々の見るものの内で参考に値いする)であるが、氏は之に「現に働いている」という条件をつけた点で、特に技術を実践的[#「実践的」に傍点]な概念にしたように見える。だが技術を或る特定な意味で、実践的に考えたいのは、多くの哲学的な(解釈論哲学風の
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