いるが、一体生産力は何で計られているのか。熱は温度で計られる。その指表を与えるものは水銀やアルコールである。錘数や高炉数や出炭高、発電量、等々及び生産物の品質の量的決定、は或る指表であり、之によって生産力が夫々の側面から表示されるのだが、この物的生産力の量的表示の総合によって決定される量(但し之は質を伴わなければ実現し得ない)の如きものが、社会の技術水準、即ち技術、と常識的に云われているものではないか、と考える。
 だからテクノクラットが生産力をエネルギーという量的なものに解消しようとしたのは、間違ってはいても、意味はあったかも知れない。とに角技術を物体とか世界や領域とかとして、云わば一種の唯名論や実念論で片づけることはカテゴリーとしてまず批判を要する。技術を物的生産力水準という風に考えれば、労働手段の体系も、労働力も、その資格づけ(Qualifikation)について、技術と呼ばれることが尤もなものとして説明出来そうである。

 さて以上のことは、要するに技術の概念が生産の力[#「生産の力」に傍点]の尺度を指すのだということで、一面あたり前すぎることにもなるが、併し次に科学(特に自然科学やがて社会科学)の概念を再検討して見ることによって、之が新しい意味を得て来るように思う。
 普通、科学は真理の認識[#「認識」に傍点]であるとされている。真理とか認識とかいうもの自体はごく実践的に又技術的にさえ規定されるとしても、要するに科学は真理の認識に帰するとされている。だから吾々は科学的認識を用いて改めて生産にも資するということになる。実験も専ら理論を検証するためにあるとされている。併し科学は元来、物を造るもの、物的生産を目標とするもの、と考えて悪いという理由はないようだ。
 電子核の人工崩壊、元素の人工転換・の実験が莫大な工業用エネルギーの獲得を窮極目的とするかも知れないなどと云うのではなく、この実験自身が、粒子や元素の製造である。抑々之はキュリ夫妻がラジウムを取り出したことに始まる系統の実験であるが、夫妻のしたことは始めてラジウムを生産したことだ。之が即ちラジウムの発見[#「発見」に傍点]である。夫妻はラジウム製造というパテントを取らなかったために、アメリカのラジウム生産業者に貴重な自由を与えて了った。派生的な実験はとに角として、実験とは原則としてこういう物の生産[#「物
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