の生産」に傍点]ではないだろうか。物を生産するとは、どんな場合でも勿論エネルギーや物質を新たにつけ加えることではあり得ないから、物を一定の目標物へ変化させることだけで即ち生産なのである。
さてこの生産過程を或る程度自由に、即ち条件の変化と共に変更し得る形で、反覆実行出来る場合、それを法則[#「法則」に傍点]の認識[#「認識」に傍点]と云うのであろう。だから認識がなり立つ時は、すでに物の一定の生産が行なわれている時である。もし一般的にそう云えると想定するなら、科学的認識はつまり科学的な「物の生産」の一結果に他ならぬ、と云った方がいいのではないだろうか。すると、認識は科学に於て、目的であるよりも結果であるということになる。科学の目的は、認識ではなく生産である、ということにもなろう。
言葉の選択上の傾向や好みならば、認識を目的とすると云っても、生産を目的とすると云っても、どっちでもいいようである。併し私はこの際、一歩譲って、問題をごくプラグマティックに考えるに止めよう。と云うのは、科学の目的を物の生産にあると考えて見た方が、色々の宿題を解くのに好都合なのである。まず第一は、例の技術に大きな関係があることで、自然科学自身と技術とで、どっちが自然科学史の根本動因であるかという問題だ。
技術の発達が決定的原因で科学自身の発達は副次的原因だとも云い、その逆だとも云い、又両者の相互作用だと云われている。だが前に云ったことから云わせれば、この問題は認識[#「認識」に傍点]と生産[#「生産」に傍点]との先後関係として提出されるべきではなくて、物の生産に於ける二つの要素の問題として取り扱われるべきものとなる。すると多分、科学と技術との相互作用も、その先後決定の関係も或いは、一層明らかとなり、或いは一層見当がつきやすくなるだろう。
次にその上で、科学に特に認識としての特徴を強調するならば、認識つまり科学は生産つまり技術の、一種の結果[#「一種の結果」に傍点]、一種の反省面[#「反省面」に傍点]となる。即ち技術に較べて科学が、より文化的な形象であると考えられる常識も満足させられる。もし自然科学(又社会科学)が、他方に於て、芸術其の他に較べて、文化という特色が薄いというような常識があるなら、それは又、科学が技術と同じく物の生産であるからで、芸術などは之に反して物の生産ではなくて意味の
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