語と客語との結合とすることを止める外にはない。併しかくしても存在判断(一般に非人称判断)と属性判断(一般に人称判断)との区別がなくなるのではない。而もその区別は判断そのものの性質の有つ必然性によって成り立つのではない、何となれば存在判断に於て判断としての性格は破綻したのであったから。そうすればこの区別は是非とも判断以外のものの性質から来るのでなければならない。そしてこの判断以外のものを承認する時始めて主語に相当するもの――例えば現象(併しそれは判断現象[#「判断現象」に傍点]ではない)――も発見されることが出来るであろう。さてそうすれば茲に存在判断は判断[#「判断」に傍点]以外のもの――それは存在[#「存在」に傍点]である――の力を借りることによって始めて成り立つことが出来るということが暴露される。それ故存在判断は実はもはや構成性を有つ判断ではないのである。存在判断の判断の構成性と見えたものは実は構成性ではなくして還元性に過ぎないことが明らかとなった。かくて判断はこの場合他の場合に於てのように充分に優越性を示すことは出来ない――之が性格としての判断の破綻である。このような破綻を齎したものは存在[#「存在」に傍点]であった、そして吾々の空間はこの存在にぞくす処の一つの存在であった。かくて存在判断に於てすでに、空間が判断の性格によって優越され得ない証拠を見ることが出来る。空間の性格は判断ではない。
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* 『思想』第七十二号、「性格としての空間」【本巻収録】。細かい点はそれ故反覆することを控える。
** Psychologie vom empirischen Standpunkt, Bd. II, S. 183 ff. ― F. Meiner.
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 空間的存在が判断の性格を有つかのように思い做す理由を、吾々は、構成的概念からの影響に於て発見することが出来るであろう。判断は概念の敷衍と考えられるのが普通であるが、その場合の概念を――普通そう考えるように――構成的と考えるならば、その敷衍である判断も亦構成性を有つことになるのが、必然でなければならない。そしてこの必然性の赴く処の運命を今吾々は存在判断に於て見た。さて判断の論理性[#「論理性」に傍点](〔Logizita:t〕)、それは判断の構成性を云い表わす言葉であるが、この論理性の蒙る筈の今のこの運命を無視して、この論理性を追求するならば、そこに表われるものは正に妥当[#「妥当」に傍点]の概念である。「妥当の領域」に於ては、「判断」に於て現われたような性格の破綻はもはや見出されないかのように見える。けれども吾々は妥当の概念をその成立の動機に於て理解する必要があるであろう。なる程妥当は判断に先立って妥当し、そして判断に固有な肯定否定の対立を超越していると説明される(吾々はラスクの判断論に於てそう教えられている)。判断の主観性に対して妥当の客観性が説かれる。併しながらそれにも拘らず、妥当という問いは実は決して判断に於いての関心と独立に成り立ったのではない。却って判断というテーマに一旦立ち之を否定することによって始めて妥当の概念は歴史的に成立する。処が判断を否定するというのも決してそれの完全なる否定ではなくして、実は却って判断が持つ処の論理性の徹底に外ならない。結局この徹底は判断の客観化[#「判断の客観化」に傍点]に外ならない。この客観化に於て判断に於て認識の通路として役立った論理性は通路[#「通路」に傍点]としての任務を捨てて「領域」となって了う。之によって結果する処は通路の完全なる紛失と、論理性の完全なる独立とであるのは当然であるであろう。というのは妥当は全く主観への関係を絶った超越的客観となると共に、それは又「論理的なるもの」そのものの理想的王国となるのである。このようなものが判断から妥当への動機である。それ故妥当はその動機を反省することによって、再び判断と結び付くべき任務を帯びずにはいられない、それは始めから約束された課題であった。故に妥当はただ判断に於てのみ[#「ただ判断に於てのみ」に傍点]、再びその通路を拾い上げることが出来るのである。従って妥当の概念は判断の概念によって、而もその構成性(論理性)によって、動機づけられている。ただこの構成のみを独立化して、破綻の懼のあった判断をば妥当にまで転位するが故に、判断が蒙ったかの破綻を黙殺し得たまでである。その代りこの妥当[#「妥当」に傍点]は存在[#「存在」に傍点]とは全く独立な概念として現われて来なければならない。かくして空間――それは存在にぞくした――の性格は明らかに妥当の性格とは独立でなければならなくなる。
 空間概念の性格は判断[#「判断」に傍点]でもなく妥当[#「妥当」に傍点]でもなく況して構成的概念[#「概念」に傍点]でもないことは茲に於て明らかとなった*。
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* 空間を論理的[#「論理的」に傍点]範疇として理解することが不可能であることは、之によって証明されることが出来る。もし一般に範疇を何かの意味に於て条件――カントに於てのように――と考えるならば。
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 空間は対象論的なるもの[#「対象論的なるもの」に傍点]であると想像され易いように思われる。それは一応、対象論的意味に於ける対象[#「対象」に傍点]であるように見えるであろう。処でマイノングの対象とは何であるか。「凡ゆる対象そのもの」「対象それ自身」に於ては「本質的には存在も非存在も認めることが出来ない*」。「対象はその性質から云って存在外である」――「純粋対象存在外の命題**」。もしかかる対象がそれにも拘らず或る意味に於ける存在を持つとすれば、その存在は Sosein と呼ばれるべきである。「対象にとって決して外的ではなく寧ろ対象の真の本質を形成する処のものは、対象の Sosein に於て成立する」のである**。かくて対象はマイノングによればかかる Sosein――それは「存在[#「存在」に傍点]」と「状態」とに対しては「可能性[#「可能性」に傍点]」と呼ばれる***――として性格づけられる。処が吾々の空間概念は存在性[#「存在性」に傍点]を有たねばならなかった。それ故空間は対象論的「対象」であり得ないことを最も著しい特色とさえしなければならない、ということになる。尤もこう考えられるであろう、かかる「可能性」は、ただ「凡ゆる[#「凡ゆる」に傍点]対象そのもの[#「そのもの」に傍点]」、「対象それ自身[#「それ自身」に傍点]」として理解される限りの対象一般[#「一般」に傍点]の性格であって、その内の特殊の[#「特殊の」に傍点]対象が、例えば存在を有つことを、それは妨げるものではない、と。けれども、もし仮にそうとすれば、或る対象は対象一般としては可能性の性格を有ち、その特殊の対象としては存在の性格を有つことになるのでなければならない。処が、特殊なるものが一般的なるものに含まれる――それに還元[#「還元」に傍点]される――からと云って、特殊なるものの性格は一般的なるものの性格によって優越されることは出来ない筈である。それ故今の仮定に於ても、特殊なる対象の性格である存在はその対象が含まれる対象一般の性格である可能性によって優越されることは許されない。従って今の場合には、たとい、空間という対象――それは対象一般ではない――がその特殊なる対象としては存在の性格を有つが、対象一般としては可能性の性格を有つと云っても、空間の性格が可能性[#「可能性」に傍点]であるということにはならない。それ故この場合でも空間は対象論的「対象」であると云って了うことは出来ないのである。空間がかかる対象の一つであるという言葉を許すとしても、空間そのものの性格を第二として、空間がこの対象の一つであるという点だけを第一に取り出すのでなければ、――そして性格を第二に回すということがすでに性格の概念に矛盾する――、空間を可能性として性格づけることは出来ない筈である。
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* 〔Meinong, U:ber Gegenstandstheorie〕(”in Abhandlungen …“)S. 492−3.
** 同 S. 494.
*** 同 S. 488 参照。
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 このようにして吾々の空間――それは常識的概念である――は対象論的「対象」の有つ可能性乃至 Sosein の性格を有つことは出来ない。かかる性格を有つことの出来るものはただ専門的空間概念の或るもの――幾何学的空間だけであるであろう。「数学は本質上対象論の一部である」、或いは寧ろ、「数学の対象は、対象論も亦その全体に渡って取り扱う固有の権利を有つ処の領野に、在るのである*」。即ち幾何学の対象である幾何学的空間は、対象論の取り扱うべき領野にぞくすることとなる。処がこのような「幾何学の空間」は彼に於ても亦決して「吾々の空間」ではない。「吾々の空間」は「実在的空間」であるか「空間直観の対象」としての空間であるかであるが、前の場合ならばそれは「存在」を持ち、又後の場合であるならばそれは「吾々の表象の内に存在する」のであると云っている**。空間は対象論的可能性[#「対象論的可能性」に傍点]をその性格とはしない。
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* 同上 S. 508 及び S. 509.
** 〔Meinong, U:ber die Stellung der Gegenstandstheorie im System der Wissenschaften, S. 92〕 参照。
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 併し対象とは何の対象であるのか。「心理的生活」に対する、即ち凡ゆる心理的能力にとっての、対象である。事実対象論は意識の問題から派生した。吾々は最後に、空間概念が意識としての性格を有つかどうかを見よう。

 幾何学的空間又は物理的空間に於て人々は導き出されたる、専門化されたる、空間概念を見出す。之に対してより根柢的にしてより根源的なるものとして、人々が普通掲げるものは、空間表象[#「空間表象」に傍点]である。人々は無言の内に、空間を空間表象として問うことをばその最も尤もらしい問い方であると思い做しているであろう。空間表象と云っても人々の理解する処は決して一定しているのではない。多くの心理学者達は之をより基礎的な知覚乃至感覚から導き出そうとした、之に反して空間表象が導き出されることの出来ないそれ自身独立の根源性を有つ知覚であることを明らかにしたのはシュトゥンプフの功績であった*。何れにしても空間表象はこの場合空間知覚[#「空間知覚」に傍点]として取り扱われる。この場合、空間は知覚の性格を有つ。之は心理学的空間表象[#「心理学的空間表象」に傍点]と呼ばれて好いであろう。空間表象を知覚から分離したものはカントである。カントによれば空間表象は第一に純粋直観[#「純粋直観」に傍点]である――カントの言葉に従うならば「形而上学的[#「形而上学的」に傍点]」空間表象[#「空間表象」に傍点]。第二にそれは直観形式[#「直観形式」に傍点]と考えられる――「先験感性論的[#「先験感性論的」に傍点]」空間表象[#「空間表象」に傍点]。第三にそれは形式的直観[#「形式的直観」に傍点]であることが明らかにされる――「先験論理学的[#「先験論理学的」に傍点]」空間表象[#「空間表象」に傍点]**。何れにしてもカントに於ては空間表象は空間直観[#「空間直観」に傍点]として取り扱われる。このようにして空間概念が一つの直観として性格づけられる時、このことは最も普通であり又最も正当であるらしく思われるであろう。処が空間が知覚であるにせよ直観であるにせよ、それが空間表象である以上は、空間が常に空間意識[#「空間意識」に傍点]であることを注意しなければならない。それであるから
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