された結果を云い表わす概念ではない。どれ程長いかと問う前に吾々は一体それが長さを持つか否かを知らねばならないであろう。そのようなものが今の長さである。それ故数学的概念を借りるならば、この場合の長さは計量[#「計量」に傍点]に基くそれではなくして順序[#「順序」に傍点]に基くそれである―― Messung と Ordnung とは数学に於て対立せしめられるのを常とする。AはBの右にありBはCの右にある時、ABの長さはACの長さに含まれている。ABCの関係は計量の関係ではなくして正に順序の関係であるが、それにも拘らずABとACは長さの関係となって現われることが出来る。このようなものが吾々の長さの概念に相当する。
 さてかくして人々が空間に就いて有つ殆んど凡ゆる概念――但し専門的諸概念は除いて――は延長[#「延長」に傍点]に帰着するものとして理解することが出来た。常識的空間概念の事態は延長の概念によって分析された。このようなものが吾々の常識的[#「常識的」に傍点]空間概念である。――それは必ずしも人々が普通[#「普通」に傍点]に有っている空間概念ではないであろう、けれども又他の意味に於て、之は極めて平凡な日常性を有っている概念に外ならないのである。

 空間概念の事態のこの分析を、強いて[#「強いて」に傍点]既成の知識に結び付けるならば、之はあたかも”Ontologie des Raumes“と呼ばれるべきであるかも知れない。というのはこの分析は空間概念の事態に於ける不変[#「不変」に傍点]にして一般的[#「一般的」に傍点]なる「本質」の分析であると思われる一面を有ち、そしてその限り「形相論」、従って又 Ontologie の名に値いするからである*。けれども何故に「強いて」であるか。問題の成立と方向とを異にしているからである。吾々の得た処は成程、決して多様にして変化極りない「事実」の展開ではなくして、その事実に於て見られ[#「見られ」に傍点]たる本質、――自由なる変更に於て残留する処の本質――であるには相異ない。その限り之は「本質論」であると云っても不都合はない筈である。併しながら吾々の今の分析が如何にして要求されたかと云えば、それは空間概念[#「空間概念」に傍点]の分析の一つの段階として始めて成り立つ理由を与えられたのであった。この空間の「形相論」は常に始めから空間概念[#「空間概念」に傍点]に制約されている、この分析は常に空間概念の性格[#「性格」に傍点]と動機[#「動機」に傍点]に従って遂行された。それ故この場合の本質=形相は単なる夫ではなくして概念に制約された本質=形相でなければならない。であるから例えばこの概念が吾々の発見しようとして来た処の概念とは異った概念として発見されるならば――何となれば概念は与えられてはなくして発見[#「発見」に傍点]される筈のものであったから――、これ等の形相が指摘される代りに他の形相が見出されるかも知れない。そうすれば延長ではなくして例えば同時存在の順序[#「同時存在の順序」に傍点]が空間の根本的規定として挙げられるかも知れない(ライプニツに於てのように)。このようにして茲に発見された本質は一応不変性を有つものと考えられるにも拘らず、それが発見される過程に於て、その仕方に於て、決して一定不変であることを保証されてはいない。こう云った処で、吾々の得た結果がどのような風にでも考え替えることが出来るというのではない。ただそのような考え替えることの出来ないような結果も、その考えを制約する処の過程によって制限されていると云うまでである。処が又この過程自身も、吾々の採用して来た処のものが、勝手に他の仕方と差し替えが出来るというのではない。吾々の採った仕方を無論吾々は唯一のものと信じているのでなければならない。ただ或る人々がこれとは異った仕方を採用しないとも限らないという可能性を承認するに過ぎない。而もこの可能性を承認することによって、吾々の仕方と他の人々の仕方とを共通の地盤の上に立て、その上で対決を迫ろうと欲するに外ならないのである。それ故得られるものが本質的であるということと、それを得る仕方も亦本質的であるということとは、今の場合一つに考えることの出来ない理由がある。もし之を一つと考えること―― Wesensschau のように――が「本質論」の欠くことの出来ない条件であるとすれば、吾々の分析はその成立に於て「本質論」と区別されなければならない。尚また成立に於て異るばかりでなく、その方向に於ても二つを同一と考える理由を吾々は有たない。「本質論」――「形相論」、「本体論」――は、「現象論」に対し、之に向うている。処が吾々の空間概念の事態の分析は、現象論ではない処の何物か[#「何物か」に傍点]に向っているのであるから。
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* フッセルルはこう云っている、「最も広い意味に於ける個物的存在の、領域的に一定し得べき凡ゆる段階には、一つの Ontologie がぞくする。例えば物理的自然には Ontologie der Natur が、動物界には 〔Ontologie der Animalita:t〕 がぞくする、云々」(Ideen…, S. 112)。
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 それでは空間概念の事態[#「事態」に傍点]の分析は何に向うのか。之に対するものは、空間概念の性格それ自身[#「性格それ自身」に傍点]の分析である。というのは、事態の分析は性格[#「性格」に傍点](従って之に基く動機)に従って行なわれた。性格に従って行なわれる分析はその限り性格の分析を結果する――空間概念の事態が分析されればそれだけ空間概念の性格が分析される以外の何物が起こるのでもないから。併し之はまだ、性格を性格として取り出して行なう分析ではない、性格は性格として――性格それ自身[#「性格それ自身」に傍点]――別に分析される必要があるのである。性格の分析によって事態の分析も(又之に先立った名辞[#「名辞」に傍点]の分析も)その基礎[#「基礎」に傍点]を得ることが出来る。

 何が空間の性格であるか。
 一般に性格に就いて少しばかり補う必要を認める。性格が多くの特徴――これは又、代表的なる性質である――を代表する処の優越な(par excellence)特徴であることを吾々は茲に知った。或るものは如何なる性質に依るよりも、まず第一に[#「まず第一に」に傍点]、何にもまして[#「何にもまして」に傍点]、その性格を以て考えられなければならない。性格によって他の性質は代表され、支配され、併呑される。性格は優越性[#「優越性」に傍点]を有つ。机は読み又は書くものとしてその性格を持ち、今朝の新聞は刊行物としてその性格を持つ。それにも拘らず、机は之に腰かけ得る性質を有ち、新聞はそれで物を包むことの出来る性質を持っている。その上で書くもの読むものであるという机の性格と机の他の性質とは少しも互いに排斥し合わない、却って机はその上で書き読むことの出来るべき性格を有つが故に、又その上に腰かけることも出来る性質を持つであろう。性格は他の諸性質を排斥するのではなくして、之を代表し、支配し、併呑する。それであればこそ机に腰かけることは誤りであり、その日の新聞を以て物を包むことは間違いであると云うことが意味を有つことになるのである。処が他方に於て机は腰かけ得る性質を持つが故に、一般に腰かけ得るものの内に列することが出来るであろう。腰掛ばかりではなく火鉢、書架、棚、など凡そ腰かけ得るものは、机と同じ同属として並ぶことが出来る。新聞紙は包み得るものとして風呂敷ばかりでなく、毛布、羽織、などと同列することが出来る。そればかりではない、机は木として新聞は紙として夫々の entities にぞくする。人々は之を否定しようとは思わない、それにも拘らず、机の性格は机であり、新聞の性格は新聞である。凡そ総てのものはこのようにして適当なる任意のものに還元[#「還元」に傍点]され得る。それにも拘らず還元されても性格の優越は失われない。還元性[#「還元性」に傍点]と優越性[#「優越性」に傍点]とは別である。吾々は念のために社会的な一例を引こう。国民皆兵であるならば軍人でない国民はないであろう、国民は凡て軍人に還元される、けれども総ての国民が軍人という性格を有つのではない。軍人を以て任じ得るものは特殊の地位の人々だけである。他の人々は還元性に於ては軍人であるが優越性に於ては軍人ではない。この場合還元性と優越性との混同は、事実一つの社会的誤謬として知られているであろう。次にこの意味に於て或るものに還元され得るということは、その或るものから構成[#「構成」に傍点]されているということではない。現に吾々の概念は確かに還元性を有っている、一切のものは概念に還元される、商品は商品概念[#「概念」に傍点]であり、某は某概念[#「概念」に傍点]である。然るに概念は構成性[#「構成性」に傍点]を持ってはならない筈であった。かくして構成性[#「構成性」に傍点]と還元性[#「還元性」に傍点]とも亦別である。処で次に、構成性を有つものは必ずそれに基いて優越性を有つ。構成的[#「構成的」に傍点]概念は現に論理的[#「論理的」に傍点]という性格を――優越性を有った。之に反して優越性を持つもの必ずしも構成性を有つとは限らない。というのは構成性が始めから問題となり得ない場合に於ても、――何となれば概念とか判断とか意識とかが問題となる特殊な場合に限って構成性は問題となることが出来る、――性格はなければならない。即ち優越性は成り立つのである。そればかりではない、構成性が問題となることの出来るこのような特殊の場合に於てすら、構成性はなくても優越性は成り立つことが出来るのである。その実例を吾々は後に意識に就いて見出すであろう。優越性・還元性・構成性は各々別である。ただ構成性が成立する時、それに基いて優越性が伴う。

 さてこれだけを決めて置いて、性格の分析に這入る。空間の性格が判断[#「判断」に傍点]の性格によって優越され得ない理由を、私は他の機会に已に、指摘した*。純粋論理学に於ける判断とは、判断作用又は判断意識ではなくして、判断という一つの独立の領域[#「領域」に傍点]を意味する。この判断の領域を通じて人々は存在乃至真理に通達し得ると考えられる。判断はかかる通路として掲げられるのが普通である。それ故判断をこのようなものとして理解する人々にとっては、一切の認識は判断されたる[#「判断されたる」に傍点]ものとして、従って認識の内容は判断されることに於て始めて成り立ったものとして、理解されるのは尤もである。存在とは「存在すると判断される」ことであり、真理とはこの判断が正しい場合に外ならない。かくして判断は構成性――判断されることによって判断されたるものの内容が構成されるという意味に於ける構成性――を有つ。故に今用意しておいた処に従って、判断は優越性を有つ。即ち判断は一つの性格を有つのである。一切の認識は判断という性格を担う。そこで吾々の問題に帰れば、空間的存在は空間的に存在するものと判断[#「判断」に傍点]されて始めて夫であることになるであろう。その時空間的存在の有つ性格は要するに判断という性格に過ぎなくなるであろう。そうすれば空間は独立の性格を有つのではなくして判断という性格に包摂されて了う外はないであろう。処が空間的存在を定立する処の判断――存在判断の代表者が夫である――は、恰も、判断としての性格の破綻を暴露している最も著しい一例でなければならない。というのは、普通、判断は主語と客語との結合をその特色とするものと考えられるのであるが、この特色は恰も非人称判断――その代表者は向の存在判断である――に於て破綻を生じなければならないからである。この際適当な主語を択び出すことの出来ないのは例えばブレンターノが之を指摘している**。それ故残された唯一の道は判断の特色をば主
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