atz)、方位(Gegend)、距り(Entfernung)、方向(Ausrichtung)など――によって説明[#「説明」に傍点]しようと試みる。併しかく説明し得る[#「得る」に傍点]ということがすでに空間概念を理解していることであるのを正確に注意したのである。吾々はこれとは反対の道を択ぶことを約束した。吾々は何の体系も構成しない、従って吾々は何の説明[#「説明」に傍点]を与えることも出来ない、ただ分析し得るだけである。而もこの分析によって既知なるものから未知なるものが、又は未知なるものから既知なるものが出て来る[#「出て来る」に傍点]のではない――吾々は演繹することは出来ない、ただ既知なるものが愈々確保されて行くというまでである。
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* 概念に於ては名辞[#「名辞」に傍点]と事態[#「事態」に傍点]とが対立する。そしてこの両者に対立するものは性格[#「性格」に傍点]である。机という名前と机という物質と、及びこの物質をこの名を以て呼ばしめる性格と。
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常識的空間概念の有つ存在性の事態の分析。
場処[#「場処」に傍点](「何処」)、位置[#「位置」に傍点]などの名辞を以て呼ばれる事態を含み、之等を始めて成立せしめ得るもの、それは延長[#「延長」に傍点]である。常識的空間概念の最も基礎的な概念はこの延長でなければならない。であるから空間的存在を有つもの――物体――と、それを持たぬもの――精神――との区別は、殆んど常にこの extensio によって与えられて来ているのである(その代表的なるものはデカルトとスピノザである)。強いて云うならば延長(又は広延[#「広延」に傍点])は二つの意味を有つことが出来るであろう。例えばロックは之を expansion と extension とに区別し、前者を虚空間としての延長、後者を実空間の延長と考えた。けれども存在性ではなくして存在者にぞくす処の物体[#「物体」に傍点]の概念によって、始めて虚空間と実空間とのこの区別が成立する動機を有つこと、従って吾々の空間概念にとってはこの区別が見当違いであること、を吾々は已に見て置いた。従って吾々はこの区別を無視して延長の一義的な概念を有つことが出来るであろう。人々が感性的と呼び慣わして来ているものも、注意して検討する時、多くは[#「多くは」に傍点]この延長を有つもののことであるのを発見することが出来る(意識の内に継起すると云うことの出来るようなものは、たといそれが経験的であるにしても――例えば内部知覚の如く――、之を必然的に感性的と呼ぶことを人々は何かしら躊躇しないでもないであろう。それが断然感性的と考えられる場合は、恐らく延長せるものとの交渉をそれが本来もたねばならぬ運命が発見された時である)。少くとも眼で見手で触れることの出来るもの――それが感性的なるものの第一義的特徴であると考えられる――は常に延長を有つ。延長によって或る人々は確実堅固なるものの保証を発見し、又或る人々は不安薄弱なるものの適例を見出す。このようにして善い意味に於ける又は悪い意味に於ける感性を、最も端的に与える事態が恰も延長である。延長は空間の基礎的概念である。
延長の事態に第一に含まれているものは次元[#「次元」に傍点]の概念である。但し茲に云うのは延長の[#「延長の」に傍点]次元であることを忘れてはならない。というのは次元は様々の概念を持つことが出来るからである。一般に次元の概念は多様性の概念を要求する。何となればもし次元者と仮想されたものが真に単一者であるならば次元は成立しない、一次元ということも常に多次元を可能なものと予想し之に対して始めて成り立つことが出来るのであるから。次元は多様性を必要とするが、なお之は更に多様性の統一を必要とする。茲に於て多様性はこの統一の分となる。さてかかる分が夫々他の分と独立である時次元は始めて可能となるのである。各分が独立であるから他の分に還元されることが出来ない。重さは長さに還元出来ず、又長さは重さに還元出来ない、その意味に於て重さ・長さ其の他は独立の分である。それ故重さ・長さ其の他は計量の次元となるのである。以上は一般の次元である。処が延長の次元に於てはこの分それ自身が延長を有つのでなければならない。この時延長は三次元[#「三次元」に傍点]の統一となって事態の事実上表われて来る特徴を有っている。人々はこの三次元性を合理的に説明しようと試みる、或る人は延長を非感性化することによって延長そのものをこの感性的なる三次元性から救おうとし、又或る人は之を他のものから演繹しようと企てる*。けれどもこのような説明[#「説明」に傍点]が一般に如何に吾々にとって無意味であるかは繰り返し指摘された。人々は事実を「合理化」そうと欲するが、併し事実とは事実として承認されるべきことそれ自身を意味するとすれば、之を合理化しないことこそ合理的ではないのか。或る人々はこういうであろう、空間が三次元であることは抽象の結果に過ぎないのであって、直接に[#「直接に」に傍点]与えられた空間はそのような次元を持つものではないと。けれどもその直接とは何か、恐らく表象へか又は人々が普通に持つ処の観念――普通性に於ける――へか、直接に与えられることであろう。吾々の求めた常識的概念は日常的でこそあれ、普通性でもなければ表象の直接性でもなかった。三次元が抽象の産物であると云うのか、分析は常に抽象的である。延長は三次元である。延長の三次元の各次元は交換し得る(vertauschbar)ことをその特色とする(例えば複素数の次元――之は無論延長の次元ではない――は交換し得ない、[#ここから横組み]a+bi[#ここで横組み終わり] の次元を交換すれば [#ここから横組み]ai+b[#ここで横組み終わり] となるであろう。それにも拘らず尚交換し得ると考えられるならば、その時は実は延長の次元が考えられているのに外ならない)。又この三次元は変換し得る(transformierbar)性質を持つ。この交換性と変換性に於て等方性[#「等方性」に傍点]の概念の生じる基礎があるのである。恐らく人は問うであろう、上下と左右は交換し得るかと。その人を横たえれば質問は撤回されるであろう。
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* あるカント学徒は三次元性と空間=延長とを切り離すことによって、又シェリングは演繹によって、延長の三次元性を説明[#「説明」に傍点]した。ポアンカレは之に反して之を分析[#「分析」に傍点]している(〔Poincare', Dernie`res Pense'es, p. 55 f.〕)。
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延長の次元は次に等質性[#「等質性」に傍点]を有ち直線性[#「直線性」に傍点]を有つ。物理的、幾何学的、心理学的空間は場合によってこれ等の性質を持たないし或いは持たないと考えられるが、そのような専門的概念を今茲で問題にしているのではない。吾々の空間がこのような専門的規定に先立って特に等質的でなく又直線的でないと考える動機を、吾々の空間概念に於て発見することが出来ないであろう。なくはない[#「なくはない」に傍点]ということがある[#「ある」に傍点]ことにならないことは云うまでもないが、等質的であるか否かが問題とならない――常識的空間概念に於ては一応そうである――ということが已にその等質性を物語っているに外ならない。その証拠にはもし誰かが吾々の常識的空間が等質的であってはならないと主張するならば、恐らく彼はその「証明の責」を負わされるであろう。之に反してもし彼が空間は等質的であると主張するならばその主張は当然[#「当然」に傍点]なものとして人々に承認されるであろう。そしてこの主張は、空間は等質的でもなければ等質的でないのでもないというような、やや不必要[#「不必要」に傍点]なる主張に較べては、遙かに意味を有つであろう。ここに空間概念の動機が働いているのを人々は見ないであろうか。後者の(不必要なる)主張は却って説明的であり、前者の(当然なる)主張は分析的である。このような分析に於て、延長の次元は等質性及び同様に直線性を有つ(再び云おう、この等質性・直線性は専門的空間概念の非等質性・曲線性によって妨げられるものではない、却って前者の概念の事態に基いて始めて後者の概念の事態は成立するのである)。――さて又延長の次元を基礎としてこそ始めて方位[#「方位」に傍点]とか方向[#「方向」に傍点]とかいう名辞を以て呼ばれる事態が発見されるのである。処が多くの人々の説明する処は正にこの逆であるであろう。
延長に於て第二に含まれる事態は連続[#「連続」に傍点]である*。連続も亦次元と斉しく延長の連続には限られない。というのは吾々は数の連続・時間の連続・運動の連続などを知っている。のみならず連続の概念は往々にして専門的であるであろう。数学者は幾何学的に又は解析的に連続の数学的概念を与えた。併しこの常識的空間概念=延長に於ける連続はかかる専門的規定を有つ連続では無論ない。数学に於ける連続の概念は如何なる普通の連続的なるものにも当て嵌まらなければならないには違いない、その意味に於て連続概念に専門的と常識的とを区別することは許されないと云われるかも知れない。けれども繰り返し指摘したように、専門的概念を常識に当て嵌めることとそこに於て常識的概念をその動機に従って発見し分析するということとは両立はするが併し全く別のことでなければならないのである。そして現に人々は(ポアンカレに従って)数学的連続を物理的連続から区別している。さて延長の、そして常識的なる、連続概念は、どのような性質を有つか。この時連続を無限[#「無限」に傍点]に関係づけて理解することが有効であるであろう。無限も亦数学的概念として成立し、そして数学的連続概念と結び付いている。吾々はかかる概念から独立に、そして特に延長の無限として之を理解することが必要である筈であった。而も同じく延長の無限又は有限であっても吾々の求めるものはかの数学的空間の夫、又は物理学の所謂宇宙の持つ夫であることは出来ない。それ故吾々の常識的無限概念は――リーマンの言葉を借りるならば、――却って「無限」ではなくして「無際限」でなければならないのである。そこでアリストテレスは、無限に就いて、そして夫と連続との関係に就いて、語っている。「無限はヒューレーとしての原因であり、そして無限の本性は欠如であり又その基体それ自身は知覚し得る連続である、ということは明らかである**」と。この言葉は恰も今の吾々の場合にとって非常に適切であるであろう。即ち無限とは延長的(空間的)原因であり――延長としてのプラトンのヒューレーを茲に憶い起こすべきである――、それは際限なきこと[#「なきこと」に傍点]であり、そしてかかる無限の基体となるものが連続であるのである。それ故延長は連続を有ち、この連続の上に於て延長の無限が成り立つのである。かかる連続の上に於て始めて吾々は限りなきものを限ることが出来る。形は茲に成立の基礎を持つ。
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* 空間を不連続的なものと考えた代表的なものは Boscovich 及びヴォルフである(Poppovich, Die Lehre vom diskreten Raum in der neueren Philosophie 参照)。――そして不連続性が多くの場合空間の有限性を伴うたのはそうありそうなことである。
** Physica, 207 b―208 a.
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延長に於て第三に含まれるものは長さ[#「長さ」に傍点]である。距離[#「距離」に傍点]又は間隔[#「間隔」に傍点]の概念を以て之に置き代えることも出来るであろう。遠近[#「遠近」に傍点]概念は之を基礎として始めて理解される。併し素よりこの長さは数量を以て何かの意味に於て測定
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