傍点]を云い表わすのに至極都合よさそうに見えるかも知れない。普通人々の有っている空間という概念――人々が普通有っている概念が必ずしも常識的概念ではないことを忘れてはならぬ――が、例えば「空間は何処にあるか」と問われる場合のように***、物体性として説明され易い点に注意すれば、それに較べては、空間性の概念はなる程吾々にとって有利であるようである。又空間を吾々のように空間として(空間性としてではなく)理解するとしても、場合によってはこの空間を説明する為めに空間性という概念を欠くことが出来ないと考えられるかも知れない。このことが必然性を有たないということを吾々は最後に見る筈である****。仮にこのような場合を除いても、人々は多くの場合、空間性によって、空間ではなくして空間のアナロギーに過ぎぬものを意味しようと欲することも亦事実であるであろう。そしてこの空間のアナロギーを以て逆に空間そのものを空間性として説明するとすれば、空間の性格は疎外されて了わなければならない。アナロギーが性格を誤ることを吾々は前に指摘して置いた。それ故空間性を以て空間に代えることは出来ない。空間のみが空間である。
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* カントは経験的空間(それは物理的観測の座標に外ならない)をば空間の複数を以て呼び、理念としての絶対空間に之を対立せしめた。故に 〔Ra:ume〕 はカントに於ても Raum ではない。――相対的[#「相対的」に傍点]空間と絶対的[#「絶対的」に傍点]空間との区別は多くの場合かかる経験的空間の問題として始めて起こる。
** 「空間と時間は実際には成立するものではない、ただ空間的なるものと時間的なるもののみが成立するのである」、云々(Brentano, Psychologie vom empirischen Standpunkt, Bd. II. S. 272 ―― F. Meiner)。
*** この問いはアリストテレスが之を一つのアポリアとして提出して以来屡々繰り返えされる(Physica, 209 a.)。
**** 「世界に於てあることに依って、空間はまず第一にこの空間性に於て見出される。かく見出された空間性の地盤に立って、空間そのものが認識への通路を有つことになる。」(〔Heidegger, Sein und Zeit, 1te Ha:lfte, S. 111〕)
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 空間概念は、存在性の概念として理解される時、歴史上、最も普通[#「普通」に傍点]に次のような名辞[#「名辞」に傍点]として現われる[#「現われる」に傍点]性質を持っている。第一は「何処」(ubi)として*。この問いの形を具えた範疇は「此処」又は「彼処」の範疇に於て答えられる。これ等の範疇が存在性[#「存在性」に傍点]の概念を云い表わすことは一応之を承認しなければならない。――「何処」とは、「何」であるかという存在者[#「存在者」に傍点]を問うのではないから。けれどもかく問われかく答える時、已に吾々は、かく問うことが出来[#「出来」に傍点]又かく答えることが出来る[#「出来る」に傍点]ことを理解[#「理解」に傍点]していなければならないであろう。問われるものが空間的に存在し得ることを知って始めて「何処」を問う動機[#「動機」に傍点]を吾々は持つ。空間的に存在し得ないものに就いてこの問いを発することには意味がない――動機がない――筈である。併し或る物が空間的に存在し得、之に反して或るものはそうあり得ない、ということを知るには、少くとも已に空間概念を理解しているのでなければならない。この空間概念――それは常に常識的である――が有つ動機に従って始めてこの範疇は範疇として成り立つことが出来る。凡て語ること――その普遍的形態が範疇である――は概念=理解の上に於てのみ可能である。そうすれば「何処」は――最も普通であるという意味に於て最初[#「最初」に傍点]にして直接[#「直接」に傍点]である処の空間的なるもののこの概念は――直ちには常識的[#「常識的」に傍点]ではあり得ない。常識的概念は最も基礎的であるが故に、却って最後[#「最後」に傍点]にそして最も間接[#「間接」に傍点]に与えられなければならないのが普通である。常識的概念――それは日常性[#「日常性」に傍点]である――は普通[#「普通」に傍点]の仕方では発見[#「発見」に傍点]されない。それであるから「何処」という言葉は空間概念を云い表わすことに於て充分であると云うことは出来ない。第二に空間概念は場処[#「場処」に傍点](locus)として現われる。アリストテレスに従えば(彼に於ては空間は場処τοπο※[#ギリシア小文字ファイナルSIGMA、1−6−57][#1文字目の「ο」にアクセント記号(´)]に外ならない)、場処とは限界[#「限界」に傍点]である。という意味は一定の境界を以て包むこと、それが場処である**。これも亦確かに存在性を云い表わす概念には相異ないであろう。場処は「此処」「彼処」を以て呼ばれる外はない、処が「此処」「彼処」は前に示された通り「何処」の範疇に外ならない。であるから場処とは要するに範疇[#「範疇」に傍点]「何処」に対応[#「対応」に傍点]する処の存在[#「存在」に傍点]を云い表わす言葉なのである。そしてこの存在とは無論空間的存在性でなければならない。それ故空間が場処として最初にとり出されたことは至極当然であるであろう。併しながら、範疇「何処」が範疇として成り立つために空間概念の理解が予め必要であった通り、之に対応[#「対応」に傍点]して、場処が場処として理解されるためには又予め常識的空間概念の理解が必要でなければならない。場処が最初に最も直接にとり出され得るということは、それが常識的空間概念であることを、少しも保証するものではない。場処は空間に於ける[#「空間に於ける」に傍点]場処である。場処を占める――限界する――ということは空間に於て[#「空間に於て」に傍点]場処を占めることに外ならないであろう(場処 locus と離すことの出来ないものは定位[#「定位」に傍点] localization である)。かくて場処という言葉も亦空間概念を正当に吾々に齎すことは出来ない。第三に空間概念は位置[#「位置」に傍点](situs)として現われる。位置が空間概念にぞくすることを何人も承認しなければならないと共に、又この言葉が空間概念を代表し得ないということもあまりに明らかであると思われる***。さてかくして以上三つの名辞は何れも空間そのもの[#「そのもの」に傍点]を云い表わし尽すことは出来ない。残るものはただ空間[#「空間」に傍点](Spatium)であるであろう****。以上の四つのものはスコラ哲学に現われた空間の代表的名辞であることを茲に注意して置こう。
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* アリストテレスの範疇の一つが之である。
** 「故に限界されたるものの直接の不動の限界、かくの如きが場処である。」(Physica, 212 a. 21 f.)爾後空間をかかる意味に於ける場処として理解することはスコラ哲学を一貫する本流であった。例えば Gent, Die Philosophie des Raumes und der Zeit 参照。
*** 位置も亦アリストテレスの範疇の一つである。位置[#「位置」に傍点]と空間[#「空間」に傍点]との概念規定の相異は、位置解析[#「位置解析」に傍点](Analysis Situs)と幾何学[#「幾何学」に傍点]との相異から間接に想見することが出来るであろう。
**** プラトンのティマイオスに於ける空間(χωρα[#「ω」はアキュートアクセント付き])――所謂「プラトンのヒューレー」、〔prima:re Materie〕 ――はかかる空間と考えられる。これが限界されたるアリストテレスの場処の如きものではなくして単なる延長で[#「単なる延長で」に傍点]あること、及び単にアナロギーや譬喩によって空間と呼ばれたのではないということ、その考証に就いてはボエムカーの研究を信じてよいであろう(Baemker, Problem der Materie in d. griechischen Philosophie, S. 174−5 及び S. 181 参照)。
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 さて最後に挙げた四つの名辞が何れも空間概念の夫々一つの特徴のみを指し示す処のものに過ぎないことを、吾々は見た。このことからして次のことが帰結して来る。空間概念は、以上に掲げられた名辞[#「名辞」に傍点]に於てその一部分を云い表わされるような夫々の事態[#「事態」に傍点]を凡て[#「凡て」に傍点]含む処の、或るものでなければならない。そして名辞の分析[#「名辞の分析」に傍点]は今之を試みた。事態の分析[#「事態の分析」に傍点]が次の仕事である*。処で已に述べた処に基いて、この事態は空間概念のかの存在性である外はなかった。そして空間概念は――吾々は何回でも繰り返す――常識的概念であった。故に常識的空間概念の存在性の事態の分析、之が次の仕事になる。というのは、単なる事態の分析ではなくして存在性の事態の分析であり、又存在性という名辞の分析ではなくして存在性という事態の分析である。さて併しこの分析は例えば物理学的或いは幾何学的な、専門的[#「専門的」に傍点]知識を借りてそれに基いて行なわれることは出来ない(尤もこれ等の知識を参照する便宜を利用することは望ましいが)。何となれば吾々の概念は常識的であったから。併し又それであるからと云って、世間普通[#「普通」に傍点]に行なわれる空間に就いての説明をそのまま借りて之に基いて分析を進めることも許されない。何故ならばもしそうすれば、世間一般に行なわれることを意味する普通性[#「普通性」に傍点]を以て、常識的概念の持つ日常性[#「日常性」に傍点]に代えることになるからである。又更に、この分析は意識の分析からも独立でなければならない理由がある。無論概念の内容――分析によって吾々は之を明らかにするに外ならない――が、同時に意識にぞくしその意味に於て意識の内容であることを、吾々は否定するのではない。併しながら概念の分析――今の事態の分析[#「事態の分析」に傍点]はその一部分である――によって明らかとされる内容が、そのまま意識の分析によっても亦明らかにされるに違いないという保証は何処にもなかった筈である。そして現に空間意識の分析に於て最初のもの――恐らく形とかそれに結び付いた色とか――は、空間概念に於ける最初のものではあり得ない。吾々は云わば材料を意識に仰ぐかも知れない、併し材料の処理――それが分析である――は意識の支配を俟ってはならない。かくて空間概念が有つ存在性の事態は全く特異の仕方に於て分析されねばならないのである。――そこで概念に於ける分析、之が吾々の用意しておいた言葉であった。今や空間概念の事態は空間概念の性格と動機とを標準として[#「性格と動機とを標準として」に傍点]分析されるべきである。常識的空間概念という言葉の下に元来吾々が如何なる事態を表象していたかが始めて茲に至って明らかにされるであろう。けれども吾々は決して何か目新しいものを提供しようとするのではない。それは人々が日常[#「日常」に傍点]最も好く知っている筈の[#「筈の」に傍点]ものに外ならないであろう、ただ人々が普通[#「普通」に傍点]それを自覚し確保していないというまでである。この最も当然[#「当然」に傍点]なるもの――それであればこそ常識的[#「常識的」に傍点]概念である――をそのものとして把握する代りに、人々はただあまりに多くの説明[#「説明」に傍点](専門的或いは非専門的な)に慣ら[#「慣ら」に傍点]されて来たというまでである。例えば人々はこの最も当然な空間概念をば、或る単純と想像される要素――場処(Pl
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