験し得る[#「し得る」に傍点]処の空間――之を empirischer Raum と呼ぼう。之は英知的乃至幾何学的空間ではないという意味に於ける消極的規定しか持たない空間概念である。積極的内容を有たないから之は除こう。第二に経験という認識形態[#「経験という認識形態」に傍点]に於て成立する空間――之を Erfahrungsraum と呼ぼう。もし経験を一定の法則に従って構成されたる学問的[#「学問的」に傍点]体系乃至その素朴な形態と考えるならば、経験的空間は物理的空間[#「物理的空間」に傍点]となる。物理的空間は経験に於て与えられなければならない――それは「実在的」と呼ばれる。けれどもこの意味に於ても亦、経験に於て与えられるということが常識的概念であることになるのでは決してない。事実それは一つの物理学的概念、従って正に一つの専門的概念に外ならないであろう。もし又経験を知覚[#「知覚」に傍点]と解するならば――知覚はまだ前の意味での経験ではない――経験的空間は感覚的に与えられた空間表象[#「空間表象」に傍点]となるであろう。この時空間は一つの心理学的概念に外ならない。心理学的空間[#「心理学的空間」に傍点]がたとい原始的な空間知覚と考えられる場合であっても――例えば一定の大きさを持った空間部分の表象と考えられるような場合であっても――、それを吾々の所謂常識的空間概念と呼ぶ理由を吾々は有たない。何となれば空間知覚と空間概念とは全く成立の動機を異にする二つの概念規定であるであろうから。前者は心理学に於ける専門的概念に外ならない。さてこのようにして吾々は少くとも三つの専門的空間概念を知っている。幾何学的、物理的、心理学的。常識的空間概念はこの何れでもなく、そしてこれ等の地盤となり基礎となることの出来るものでなければならない。
 吾々は常識的空間概念の分析に先立って予め二つの誤解を警戒しておく必要を感じる。第一に空間概念――以下常識的空間概念を略してかく呼ぶ――は、それ自身を目的として(per se)理解されるべきであって偶然的(per accidens)に理解されてはならない。どのような概念も per se に理解出来ると共に又 per accidens にも理解出来る性質を持っている。沙翁を語るためにハムレットを語るならばハムレットは per accidens に取り扱われる。之に反してハムレットを語るために沙翁を語るならば今度は沙翁が per accidens に、そしてハムレットは per se に取り扱われるであろう。もし神[#「神」に傍点]を理解するためにそれに付随して偶然に空間が問題となるならば、そしてその限り空間の問題が解かれるならば、之によって明らかとなるものは、空間の性格ではなくして実は神の性格でなければならない筈である*。無論偶然に解くことによっては問題が全く解けないと云うのではない。却ってそれが一応解かれ得るが故に解き尽し得たかのように思い做す危険を人々は有つのである。偶然は性格を逸する、それが見当違い[#「見当違い」に傍点]である。このような誤解の最も一般的なものは、一つの哲学的体系を組織するのを目的として、その視点に立って空間概念を云わば義務的に取り入れるか、又は之を利用する態度である。かくすれば空間は例えば論理的範疇[#「論理的範疇」に傍点]として説明[#「説明」に傍点]されたり、或いは光として説明[#「説明」に傍点]されたりすることが出来る**。――処が吾々は空間を他の何物かによって説明[#「説明」に傍点]するのではなくして、空間そのもの[#「そのもの」に傍点]を分析[#「分析」に傍点]することを欲する。第二に空間概念はアナロギーとして理解されてはならない。例えば「色の幾何学」「音の幾何学」などに於ける色・音の空間、人々が好んで問題にしようとする絵画に於ける空間、その他任意の何々に於ける空間など(そしてヘルバルトの英知的空間の如きも亦)、何処までが本来(per se)の空間概念であり、何処からがアナロギーとしての空間概念であるかを、注意深く見分けることが必要であるであろう。アナロギーとしての空間は之を常識的空間概念と混同してはならない。かくて空間概念は常にそれ自身として、即ち他の概念に従ってではなく空間概念自身を支点として、取り扱われなければならない。――空間概念だけを前景に持ち出し、之を独立の問題として正面的[#「正面的」に傍点]に臨む時に始めて、空間概念の分析[#「空間概念の分析」に傍点]の意味は成立するのである***。
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* 空間を神に付属せしめて理解することは昔から行なわれた処であるが、その最も著しいものはヘンリー・モーア、及びニュートンであろう。
** 空間を範疇として始末した代表的なものはコーエンである。又空間を光と同一視することはプロクロスに始まる。後に至って Witelo が之を承け継いだ。
*** 空間概念の分析が「空間の演繹」と正反対であることをこの機会に注意して置こう。後者の代表者は ”geistreich“ なるシェリングである、彼は空間(それは又物質である)を物理的諸力から構成[#「構成」に傍点]した。処がかかる構成こそは分析の正反対である。
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 空間概念はその性格に従って分析されねばならない筈であった、何がその性格であるか。空間という常識的概念が要求される時、その時は必ず存在[#「存在」に傍点]を問題にしている時である。存在という概念には様々の解釈が施されるであろうが、茲では最も平凡な一つの存在――空間的存在――をさし当り理解しておけば充分である。この意味に於て机は存在するが机の表象は存在しない(但し表象されたる机は尚或る意味に於て空間的存在ではないかという疑問は一応尤もであるが之は最後に解かれるであろう。吾々の今云おうとする区別はこの疑問と無関係に明らかである)。この机と机の表象とを区別しようと欲する時、実際上、必ず空間概念が要求されるのである。人々は或いはこう云って反対するかも知れない、実在と表象との区別は、或いは主観の普遍的必然的構成であるか否かによって、或いは自我の奥底に於ける統一であるか否かによって、始めて与えられるのであって、其処に空間を持ち出すことは何の説明にもなりはしないと。けれども再び吾々は繰り返そう、吾々の云う空間概念は常に一つの常識的概念である、それは実在と表象との区別を哲学的に説明[#「説明」に傍点]することは出来ないし又しようとも思わない、ただ実在と表象とを人々が普通[#「人々が普通」に傍点]何によって区別しているかということだけに答えることが出来ればよいし、又それだけには答える義務があるのである。人々は実際机と机の表象とを区別する為に[#「為に」に傍点]空間概念を要求[#「要求」に傍点]するのである。人々は両者の区別の深遠なる――そして専門的なる――意義を教えられるよりも、両者の区別を確保することが更に必要[#「必要」に傍点]なのである。この必要を満足せしめるものが人々の持つ[#「持つ」に傍点]、従って吾々の求める[#「求める」に傍点]、空間概念でなければならない。こういうと又文学者達は批難して云うであろう、人々は何も改めて[#「改めて」に傍点]そのような概念を借りなくても、すでに机と机の表象との区別は明らかに知っているのではないかと。併し之は吾々の言葉に対する批難ではなくして却って保証であるに外ならない。何となれば、この二つのものの区別を明らかに知っていること、それこそ吾々の云おうとする空間概念なのであるから。けれども又云うかも知れない、人々は何もかかる概念に於て理論的にこの区別を知っているのではなくして単に実践的に之を把捉しているのであると。正にその通りである、処で一般に吾々の概念は実践的であり得なかったであろうか――前を見よ。今人が机に坐って手紙を書こうとする時、その机が表象されたものであるか実在であるかの区別が、その人の実践を決定する力を持たねばならない。空間概念とはこの実践を決定する力となることの出来るものを指す(紙の上に――空間的に――描かれた机は、空間的存在であるにも拘らず、実在する机ではないと云うであろうか。併し描かれた机は元来机ではない。机の表象は「机」の表象であり、描かれた机の表象は「描かれた机」の表象である。机と描かれた机との関係は今の区別に関わる処はない)。かかる空間概念は日常生活に於て常に要求[#「要求」に傍点]されている処のものであり、又日常生活を常に指導して行く任務[#「任務」に傍点]を有っている。研究故の概念――専門的概念――ではなくして活動故の概念――常識的概念――で吾々の空間はなければならない。人々は表象に頼らずして常に実在――存在――に頼って生活している、かかる信頼を裏書きするものが夫でなければならない。このような意味に於て空間は一つの存在[#「存在」に傍点]の概念であることが明らかとなった。
 存在を向の約束に従って空間的存在に限定しても、存在の意味はまだ決して一様ではない。第一は机という存在者[#「存在者」に傍点]を、第二は机の持つ存在性[#「存在性」に傍点]を、存在は云い表わすことが出来る。人々は普通、空間をこの二つの規定の何れともして説明[#「説明」に傍点]する。吾々は――性格に従って(動機に従って)空間概念を理解[#「理解」に傍点]すべき吾々は――、之に反してただ後者のみを採る。何となれば存在者(物)と存在者との間[#「間」に傍点]が空間的存在にとって是非とも必要であるからである。故に吾々の空間概念――それは常識的である――にあっては、空間が物体的[#「物体的」に傍点]であるか無いかという問題、従ってより一般に、空間が実[#「実」に傍点]であるか虚[#「虚」に傍点]であるかという問題は、成立する動機を持つことが出来ない筈である(たとい物理的空間概念に於てそれが成立するとしても*)。何となれば実も虚も物体性を基準として成り立つのであるが、この物体性はとりも直さず存在者[#「存在者」に傍点]の概念にぞくする、処がそれは存在性[#「存在性」に傍点]の概念とは別なのであるから(併しそれであるからと云って空間が物体的ではない[#「ない」に傍点]、虚である[#「ある」に傍点]、ということは出て来ない。存在者の概念[#「存在者の概念」に傍点]に於て与えられた区別を存在性の概念[#「存在性の概念」に傍点]にぞくするものが守らなければならない義務はないから)。之に関連して空間は運動[#「運動」に傍点]し得るか否かと云う問題も亦今と同じ理由によって成立しない。空間は一つの存在性[#「存在性」に傍点]の概念である。
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* 一般に物理的空間は実空間として説明され、之に対して幾何学的空間は虚空間と呼ばれる。心理学的空間に於て実空間に相当するものは空間知覚(感覚によって充実されたるもの)であり、虚空間に相当するものは例えばカントの Anschauungsform であると云えるであろう。――凡てこれは専門的空間概念に於て発生する区別に外ならない。
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 存在性の概念として理解される時、空間概念は先ず始めに少くとも次のような名辞と訣別しなければならぬ。第一は 〔Ra:ume〕。何となれば空間の複数は空間を物体性として説明することの残影であるか、それでなければ物理的空間に於ける所産であるかであるが、何れもそれが今の場合にとって見当違いであることを今吾々が述べた処である*。第二は 〔das Ra:umliches〕。何となれば之は存在(Raum)に対して恐らく空間的に表象[#「表象」に傍点]されたるものを意味するのであるが、それと空間概念[#「概念」に傍点]とを結ぶ理由は何処にも示されていない**。第三は 〔Ra:umlichkeit〕。空間性[#「性」に傍点]は空間の存在性[#「性」に
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