て性格に於て[#「性格に於て」に傍点](故に又動機に於て)、一言にして云えば概念自身に於て[#「概念自身に於て」に傍点]、分析されねばならない。概念の分析とは之である。
概念は、その性格は、歴史社会的存在を持つと云った。けれども、それは単なる事実としては与え[#「与え」に傍点]られていない。吾々はそれを発見[#「発見」に傍点]しなければならない筈であった。それ故吾々の分析は必ずしも ”streng“ であることは出来ないであろう。ディルタイの言葉を借りるならば、論証的[#「論証的」に傍点]ではなくして、それは divinatorisch であるとも云うべきである。併しながらこのことは概念の分析の学問性を奪うことは出来ない。何となれば、かかる場合に於て学問性を保証するものこそ、元来分析という概念ではないのか、――分析とは内容なき反覆ではなくして源泉からの分析であった。学問的とは方法的のことであり、方法的とは分析的のことである。そして分析的のみが理論的であり得る。
概念が歴史社会的制約を持つと考えられる時、同一の概念が日常語として又専門語として理解されること――それを吾々は最初に主張した――の理由が必然となるであろう。日常語とは云うまでもなく日常的な知識に於て語られる言葉を云うのであるが、常識[#「常識」に傍点]は恰もこの日常的な知識を意味する。常識に於て成り立つ概念、それは常識的概念である。処で常識は一面に於て不完全な知識を意味する場合を有つであろう。まだ充分に専門的となることの出来ない処の、或いはそれ程専門的であることを必要としない処の、稍々不定な内容を持つ知識、それが常識の有つ一面である。かくすれば常識はやがて専門化せられるべき、専門化せられて初めて独立した知識となり得るような、非独立的な価値しか有たない知識として、消極的に理解されるに過ぎないであろう。この時、常識とは幼稚なる学識[#「学識」に傍点]に過ぎないように見える。処が之に反して常識は他に、も一つの異った概念を有つ。その時、もはやそれは不完全な知識ではなくしてそれ自身完全なる知識となる、ただそれが学識ではないという迄である。それ自身に於て独立の価値ある日常的な知識、之が常識のもつ他の一つの意味でなければならない。もし常識に何も知識としての独立性と価値とがないならば、それはどのような理由の下にも、「迂遠なる」学識を嗤う権利を持つ筈はないであろう。常識が学識に対して知識の価値を対等に争い得るのは、ただそれがこのような独立の価値ある積極的知識としての常識である場合でしかあり得ない。人々はただこのような常識のみを専門的学識に対立させることが出来る―― bon−sens。故に又この意味の常識的概念[#「常識的概念」に傍点]のみがそれに対する専門的概念[#「専門的概念」に傍点]と対立する。吾々はかくして初めて日常語と専門語との区別――吾々が好んで用いた処の区別――を正当ならしめることが出来る。又かくして初めて常識的概念を分析すること――それはやがて必要となる筈である――に理由を発見することが出来るのである。何となれば、もし日常的な常識的概念が専門的概念の不完全なものに過ぎないならば、前者の分析は要するに後者の分析の不完全なものに過ぎないこととなり、常識的概念の分析は何等の結果を約束することも出来なくなるであろうから*。
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* スコットランド学派の常識哲学はそれ故、常識の知識としての独立を主張することによってのみ成立する――“sound”common−sense.
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常識的概念と専門的概念、従って日常語と専門語、との区別とその対等とを吾々は今見た。恐らくあり得べき一つの重大な誤解を警戒しておく必要があると思う。専門的概念は学識に於て知識としての価値を有ち、之に対して常識的概念は日常性[#「日常性」に傍点]に於て独立の知識としての価値を持つ。人々はこう思い做すかも知れない、日常性[#「日常性」に傍点]とは世間的により普通[#「普通」に傍点]に行なわれること――普通性[#「普通性」に傍点]――を指すのである、と。もしそうすれば専門的概念もそれが普通一般に行なわれる時には常識的概念となり、そしてあまり普通一般に行なわれない概念は常に常識的概念ではあり得ないということにならなければならぬ。併し吾々にとっては普通性[#「普通性」に傍点]と日常性[#「日常性」に傍点]とは異る。前者は一般に行なわれているという単なる与えられたる事実であり、之に反して後者は、一般に事実として行なわれている処のものが実は[#「実は」に傍点]何でなければならない筈であるかという課せられた課題なのである。であるから専門的概念が如何に普通一般に行なわれた処で、それであるからと云って常識的概念になるのではない。又たとい普通一般に行なわれなくても、或る普通一般に行なわれているものがそうある筈である処の概念はなお常識的概念である。あまり行なわれないということが専門的概念の資格とならないと同じに、普通行なわれるということが常識的概念の資格とはならない。元来或る一定の概念が常識的であり他の一定の概念が専門的であるとは限らない。同一の概念も常識的概念として又専門的概念として理解される筈であった。尤も或る概念はより普通に[#「普通に」に傍点]専門的概念として通用し、他の或る概念はより普通に[#「普通に」に傍点]常識的概念として通用する(普通性と日常性との無関係を注意せよ)。それ故現に吾々は「概念」に於ては術語(専門語)としての「概念」から、「理解」に於ては日常語としての「理解」から出発した。併し両者は何れも日常語(常識的概念)であると同時に専門語(専門的概念)であり得た。かくて吾々の常識的概念は普通性[#「普通性」に傍点]を持つのではなくして日常性[#「日常性」に傍点]を有つのである、――概念は一般に与えられてあるものではなくして求められ発見されるべきものであった、日常性は其処に成り立つ。
さて常識的概念は専門的概念に較べて、その歴史社会的成立に於て(性格と動機とに於て)、より根柢的でなければならない。勿論専門的概念は或る事物を把握する点に於ては常識的概念よりも根柢的であるに違いない。もしそうでなければ専門的概念としての資格を欠くであろう。併しそれは歴史社会的成立に於て根柢的であることとは別である。成立[#「成立」に傍点]に於ては常識的概念はより根柢的でなければならない。専門的概念は常識的概念の地盤から派生する[#「専門的概念は常識的概念の地盤から派生する」に傍点]。処で吾々は常識的概念だけを独立に分析することが出来る。であるからまず常識的概念の分析を独立に行なった上で、それに基いて夫に対応する専門的概念の分析を行なうことが、概念の性格と動機とに忠実な分析の手続きの順序でなければならない。この意味に於て常識的概念は常に基礎概念[#「基礎概念」に傍点]であり、専門的概念は常に上層概念[#「上層概念」に傍点]である。
最後に此迄の結論を繰り返えそう。概念[#「概念」に傍点]は常に理解[#「理解」に傍点](把握[#「把握」に傍点])と共に初めて語られることが出来る。かかる概念(把握的概念)は性格[#「性格」に傍点]を概念し動機[#「動機」に傍点]を有つ。概念の分析[#「概念の分析」に傍点]は概念自身を源泉[#「源泉」に傍点]として行なわれなければならない。即ち概念は、その性格と動機とに従って又それに於て、分析される。何となれば概念は歴史社会的制約[#「歴史社会的制約」に傍点]を以て存在[#「存在」に傍点]するから。併し概念は決して事実としては与えられていない、それは発見[#「発見」に傍点]されなければならない。分析は常識的概念の分析から出発すべきである。何となればそれは歴史社会的制約に於てより根柢的な基礎概念[#「基礎概念」に傍点]であるから。――さて吾々の問題、それは空間概念の分析[#「空間概念の分析」に傍点]の問題であった、を正当に提出し得るためには、以上のような準備をしておくことが是非とも必要であったと思う。併し今迄に触れるべき点に残らず触れたとは思わない、無意識に看過した点もあろうし、又故意に省いて後の機会に譲った点もある。このような点は実際に問題を取り扱うに当って、必要な限りその折々に分析されるであろう。
二 問題――空間概念の分析[#「空間概念の分析」に傍点]
空間は思うに、一つの特殊なる学問又は更に一般に特殊なる文化領域に於て始めて、問題として発生するものではなくして、これ等の領域に対して云わば始めから与えられたものとして現われるものであるということが出来る。例えば近代の階級という概念は経済乃至政治の領域に於て始めて発見される、この概念は云わばこの領域の出である。之に反して空間という概念はそれが発生するこのような固有な故郷を有たない。空間という問題は特殊の領域に於て形づくられる問題ではなくして、既成の問題として、種々なる領域に於ける問題となって取り入れられることが出来るのである。空間の問題は様々の領域に渡って――併し無論領域それぞれの色彩を具して――横断する、之は注目に値いする事柄であると思う。空間の問題がそれを取り込んだ夫々の領域の色彩を帯びているために、茲には決して一定した同一の空間の問題の形態はないように見える。空間はそれぞれ特有な仕方に於て問われているかのようである。処が元来何れの領域も空間という既成の問題を取り込んだのであるから、その限り空間の問題は一定していなければならないように思われるのも亦自然であるであろう。そこで各々の領域は自己の持つ「空間の問題」を絶対的な形態と思い做し、之を他の領域に迄も強いようと試みる。物理学者は自分が対象とする空間を唯一の空間と考え、心理学者も亦自分の取り扱う空間を本来の形に於ける空間と想像し易い。けれどもこのような専門家達は、同一の問題と云われるものでも、問題にする仕方[#「仕方」に傍点]によって実は異った問題になることが出来る、ということを注意していない。なる程空間の問題は種々なる領域に共通である、けれども問題の形態[#「形態」に傍点]は別々であることが出来る。従ってこの形態に於ける問題を解くことによって結果する空間概念[#「概念」に傍点]は夫々異ることが出来る――而も空間概念という同一の名の下に。さてこの関係は何を吾々に教えるか。空間の問題は種々なる領域――それは専門的領域であることが出来る――に編入されるに先立って、それ自身の出生の地盤を持っているということがそれである(それの Heimatlosigkeit とは実は之であった)。之によって始めて空間は種々なる領域の問題ともなることが出来るのである。吾々の準備した言葉を用いて云い直すならばこうである、空間は一つの常識的概念[#「常識的概念」に傍点]である、それであればこそ或る夫々の特定の領域の専門的研究によって産み付けられることを俟たずに而もその領域の問題となることが出来る、そしてこの夫々の領域の問題となる時、空間は又専門的概念[#「専門的概念」に傍点]ともなるのである。
一定であると想像する理由のある常識的概念「空間」も、専門的概念となる時、向に示した通り、決して唯一であることは出来ない。吾々は幾つかの専門的な空間概念を知っている。第一に挙げられるべきは幾何学的空間[#「幾何学的空間」に傍点]概念でなければならない。幾何学が空間の学(数学)であるという理由によって、幾何学に於て空間と見做されるもの――幾何学的空間――を、吾々が日常その内に生活して経験している空間と同じに見ようとする人々は、それ程多くは見受けられないであろう。すでに幾何学的空間は経験的ですらない、況して吾々の云う処の常識的概念であることは出来ない。次に経験的空間[#「経験的空間」に傍点]という概念のもとに人々は異った多くのものを理解する。第一に経
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