に或る概念を引き回わすならば、その概念は全く任意の人工的変容を受けるであろう(概念が捏弄される)、かく変容された概念はもはや前の連関の一環としては当て嵌まらなくなって了うであろう(概念は検証され得なくなる)、これが悪しき意味の抽象的概念に外ならない(之々の概念が抽象的であると決っているのではない。概念の取り扱い方によって如何なるものも抽象的となる。それ故具体[#「具体」に傍点]という概念が抽象的に引き回わされるのを人々は往々見るであろう)。概念は抽象的となろうとする時その運動を禁止されなければならない。名称の変容の制限は概念の運動のこの制限に基く。この制限を与えるものが概念成立の動機[#「動機」に傍点]である。
 すでに触れた通り概念はその成立を有つ。歴史社会的に与え[#「与え」に傍点]られることは、歴史社会的に成立[#「成立」に傍点]することである。この与えられた概念を(命名に於てのように)採用する時、歴史社会的制約が吾々を制限する。この制約に制限されて初めてその概念は吾々に於て成立[#「成立」に傍点]する。そして更にこの制約に基いてその概念を吾々が使用する理由が成立するのである。概念はこのようにして成立[#「成立」に傍点]する。それは過程[#「過程」に傍点]を有つ。そしてこの過程は歴史社会的制約に於てある。動機とはこの歴史社会的過程[#「歴史社会的過程」に傍点]に外ならない。この動機を忘却する時、この概念は解体されて了うであろう、何となればその成立[#「成立」に傍点]の過程が踏みはずされることになるから。そのようなものが概念の構造[#「構造」に傍点]である。さて概念が成立するものとすれば、それはもはや単に与えられることは出来ない。それは与えられた既定の事実ではなくして、成立せしめるべく課せられた一つの要求[#「要求」に傍点]であるであろう。現に吾々は単に所有しているだけでは或る概念を使いこなすことは出来ない、それを活用し得るためには、その概念の云い表わす要求を、課題を、吾々が会得していることが必要である。――概念は所有されているものではなくして常に発見[#「発見」に傍点]されて行くものである。
 概念は動機を有った。処が概念とは性格の理解であった。茲に動機と性格との関係が問題となる。性格が概念成立の動機となる、性格が動機づける[#「動機づける」に傍点]、之によって初めて概念は動機を有つ[#「動機を有つ」に傍点]。動機は概念の働きではない、何となれば一般に概念が概念として――性格者として――働くことは出来なかった筈であるから。
 概念は性格[#「性格」に傍点]を概念しそれによって動機[#「動機」に傍点]を有つ。之が今まで得た結果である。概念の解釈は一まず止めて今は概念の分析に還る機会である。

 第二に、何を概念の分析[#「概念の分析」に傍点]と呼ぶか。
 今迄述べて来た処を次のように理解するならば、それは根本的な誤解である。性格というものがあり、そして之に対してその概念があるとして、両者を関係づけることによって、認識[#「認識」に傍点](理解)が如何にして可能[#「可能」に傍点]となるか、を吾々が説明[#「説明」に傍点]しようと欲したのである、と。第一吾々にとってはものとその概念とが客観と主観とのように対立しているのでもないし、又第二に吾々の問題は認識の基礎づけ[#「基礎づけ」に傍点]の問題でもない。このためには恐らく一つの体系[#「体系」に傍点]を組み立てることが必要であるであろう。処が吾々は概念の(又は理解の)体系を組織したのではない。吾々は概念を以て世界やその認識を説明しようとは空想しない。それは恐らく形而上学か認識論の仕事であろう、併し吾々の仕事ではない。体系を組み立てるのに必要なものは総合[#「総合」に傍点]である。故に吾々に必要であったものはこの総合ではない。ではなくして正に分析[#「分析」に傍点]でなければならない。吾々の方法[#「方法」に傍点]――それは体系ではない――は分析的[#「分析的」に傍点]であった。処でこのような分析とは何であるか。そう問われる。単に分析だけを引き離して解釈することは吾々には出来ないであろう、何となれば吾々にとっては分析は常に概念の分析[#「概念の分析」に傍点]なのであるから。
 人々が普通何かを説明すると云う時、之を吾々の言葉に引き直して云うならば、実は概念の分析を理想としているに外ならない。そして普通単に分析と呼ばれるものも常に概念の分析でなければならない。「商品の分析」は実は商品概念の分析に外ならないであろう。なる程、商品概念を分析するのではない、商品そのもの[#「そのもの」に傍点]を分析するのである、と人々は云うかも知れない。併し商品ダイヤモンドを分析すると云っても、その結晶の構造を明らかにしたり、化学的分析によって炭素に還元したりすることが、その人々の商品そのもの[#「商品そのもの」に傍点]の分析であるのか。商品そのものがとりも直さず商品概念である。商品を商品概念としてではなく単に商品として理解するならば、その分析の意味は今示した通り曖昧であることを免れない。之に反して之を商品概念として理解するならば、――但し之は単に概念[#「概念」に傍点]として理解するのではなくして商品[#「商品」に傍点]概念として理解することである――、その分析は必然に吾々の(又人々の)云う処の分析となる。故に次のことは明らかである。商品が分析され得るためには商品概念が分析されるのでなければならない。凡そ或るものが分析され得るには、そのものは分析され得る通路を持たねばならぬ。この通路がその或るものの概念[#「或るものの概念」に傍点]である。そしてかかる通路を有つその或るものが性格[#「性格」に傍点]である。商品が分析され得る通路、それは「商品の概念」である。この商品の概念という通路を有つ商品、それは「性格・商品」である。そしてこの性格「商品」の分析が「商品概念」の分析である。このようなものが吾々の概念の分析[#「概念の分析」に傍点]なのである。――概念の分析とは結局性格の分析に外ならない。
 概念の分析は単なる概念そのもの[#「単なる概念そのもの」に傍点]の分析ではなくして常に、或るものの概念[#「或るものの概念」に傍点]の分析である。と云うのは、或るものの単なる概念(例えば名辞)の分析ではなくして、その或るものを概念に於て[#「概念に於て」に傍点]分析することである。即ち、性格[#「性格」に傍点]を概念に於て[#「概念に於て」に傍点]分析することでなければならない。処で一般に概念の分析はその分析が汲み取られるべき源泉[#「源泉」に傍点]を有つ必要があるであろう。もしそうでなければ分析は一歩も進められないか、もしくば強いて分析を進めようとすれば分析ではなくして内容なき捏弄に陥って了う外はない。そしてこのことはただ概念がその過程を失喪することに於てのみ発生する。処が過程を失喪することは吾々の概念に於ては許されない(構成的概念であるならば恐らく許されるであろうが)、故に概念の分析は源泉を有たねばならない。この源泉、それがとりも直さず又概念である。分析は概念に於て[#「概念に於て」に傍点]行なわれる、概念そのものを源泉として行なわれるのである(概念の分析は一定の目的を有つ、この目的こそ課題として掲げられたる性格である)。
 今もし概念が構成的概念であるならば、その分析は進行することが出来ないであろう。これを隠蔽するためにはそれ故一つの捏弄に逃避する外に道はない。一方に於て概念に構成性を与えながら、他方に於て概念を分析し得るかのように思い做すためには、この捏弄は避けがたい。茲に概念のスコラ主義が成り立つのである*。概念と実在との同一を許さない限り、即ち概念に概念という性格を与え実在に実在という性格を与え、そして二つの性格を不思議にも同一化しない限り、このような概念の分析は何の結果をも約束するものではないであろう。結果を約束しない仕方、それは最も非方法的である。吾々の分析はかかる煩瑣的思弁と混同されてはならない。
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* この場合分析の(実は捏弄の)源泉となり得るものは言葉[#「言葉」に傍点]だけである。スコラ的本体論とは「言葉の意味から分析的判断を引き出すことである」(Husserl, Philosophie als strenge Wissenschaft, Logos, Bd. I. S. 305)。
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 概念の分析の源泉として意識現象[#「意識現象」に傍点]が択ばれる場合。現象学が夫である。「本質の照観に於て把捉された本質[#「本質」に傍点]は、少くとも可なりの程度にまで、固定した概念として定着される*。」このような本質概念を通じて、即ち本質の照観に溶け入るべき概念的な言葉の意味を通じて、現象は記述されるのである**。現象の記述は従って、種々の本質概念[#「概念」に傍点]の間の関係を決定する処の一つの分析[#「分析」に傍点]であるから、之を或る意味に於ける概念の分析[#「概念の分析」に傍点]と呼ぶことは出来るであろう。それは吾々の概念の分析と同じであるか。実際、本質概念[#「概念」に傍点]は――但しその概念の分析ではない――吾々の概念と一応同じに考えられるであろう。と云うのは、第一にこの概念は決して構成的概念である理由を有たない。本質を不変にして一般的なものと考えるにしてもそれが所謂概念――構成的概念――であることにはならない。ただ把握的概念と構成的概念との区別を無視する時にのみ、本質は構成的概念であるかのように誤られるであろう(例えば W. Ehrlich***)。第二にこの概念は単に言葉の意味[#「言葉の意味」に傍点]でもあり得ない筈である――それは「概念的[#「概念的」に傍点]な言葉の意味」であった。現象学の分析は言葉として用い慣らされている呼び方から出発しはするが、スコラ的概念ではない。かくして現象学に於ける本質概念は一応吾々の概念と一つであるように思われる。処がそうであるからと云って概念の分析[#「概念の分析」に傍点]は吾々のそれと一つであるのではない。現象学に於ては、概念の分析の源泉を現象[#「現象」に傍点]に求める(そして現象は現象学に従えば意識[#「意識」に傍点]である)、しかるに吾々の概念の分析は、概念それ自身を源泉とする筈であった。現象学に於ける概念の分析――それは「本質の分析」である――は実は意識[#「意識」に傍点]の分析である。之に反して吾々の求めるそれは、言葉通りに概念[#「概念」に傍点]の分析でなければならない。――そして概念の分析の意味が異るだけそれだけ、概念[#「概念」に傍点]の意味も異るわけである。実際本質概念と吾々の概念との区別を、吾々は後に至って見る機会があるであろう。
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* フッセルル、同上 S. 15.
** 同 S. 14. 参照。
*** Ehrlich, Kant und Husserl 参照。
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 概念を概念自身に於て分析する、概念自身をその分析の源泉とする、之は言葉の内容なき反覆ではない。すでに概念は動機を有った。そしてその動機は歴史社会的制約を有った。それ故概念は歴史社会的に存在[#「存在」に傍点]している――それは歴史社会的に成立した。そこで概念は自己の歴史社会的存在に於て、その成立の過程に於て、即ち動機に於て、分析されることが出来る。即ち又それは性格に於て分析される。概念の分析の源泉は再び性格[#「性格」に傍点]である。而もこの性格は歴史社会的制約を以て歴史社会的に存在していなければならない。故に分析はこのような存在[#「存在」に傍点]を源泉として行なわれるべきである。それ故今や吾々は云うことが出来る、概念は性格に従って[#「性格に従って」に傍点](故に又動機[#「動機」に傍点]に従って)、そし
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