語としての――概念によって特色づけられる或る部分があるということは、至極事実上ありそうなことであるし、又吾々の理論の整合から云っても充分成り立って好いことではないか。却ってこの日常語を地盤としてこそ初めて吾々はこの術語をも統一的に理解し得るのである。併し人々は叫ぶであろう、術語として普通通用している概念を捨てて特に日常語としての所謂「概念」を紛らわしくも概念と呼ばねばならない理由が何処にあるのか、と。なる程それを概念と呼ばずに外の名を以て呼ぶことは勝手であるようである。併し吾々の目的――空間概念の分析――にとってはそれを概念と呼ぶことが必要なのである。何となれば空間は吾々のような意味に於て、そして人々のような意味に於てではなく、空間概念[#「空間概念」に傍点]であるであろうから。併し空間が何故空間概念である必要があるのか。空間が分析[#「分析」に傍点]され得んがために(後を見よ)。
概念は理解と離れて理解し得ず、理解は概念と離れて概念し得ない。以後両者はただ両者の統一の真理の上に立ってのみ語られる。
理解とは常に性格[#「性格」に傍点]を理解することである。人を理解するとはその人の性格を理解することに外ならない。理解される限りの一切のものは性格を有つ。桜は桜として梅花は梅花として、花は花として葉は葉として、木は木として草は草として、植物は植物として動物は動物として、夫々の性格を有つ(普遍は普遍として個物は個物として夫々の性格を有つのであるから、性格は普通想像され易い処とは異って、類や種――それは術語としての概念と離すことは出来ない――とは無関係である。従ってその限りの個物・個体・個性とは関係がない)。性格とは第一にものの性質[#「性質」に傍点]である。尤も具体的なものは無限の性質を持っていると考えられる。そこで第二に、他の一切の諸性質を代表[#「代表」に傍点]する*処の性質、特徴[#「特徴」に傍点]、が性格である。けれども特徴は事情によっては複数であるであろう(例えば或る構成的概念が上概念と比較されるような事情の下には数多の徴表[#「徴表」に傍点]が指摘されるのを普通とする)。そこでこのような凡ての特徴を更に代表[#「代表」に傍点]する処の優越[#「優越」に傍点]した最勝義[#「最勝義」に傍点]par excellence な特徴、之を性格と呼ぶのである。理解はこのような性格を把握する**。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
* 代表という概念は例えば抽象という概念と比較されるべきではない。後者は類・種の系列に関係する。処が前者は之とは無関係であった。
** 性格を理解し誤ること――誤解――の内、最も救い難く見えるものは見当違い[#「見当違い」に傍点]である。後に見当違いが吾々の問題――空間概念の分析――に於て、どのような役目を演ずるかを見るであろう。
[#ここで字下げ終わり]
理解は某性格の理解であるから、その限り某理解はその某性格を有つという言葉が許される。従って又この意味に於て、某概念は某性格を有つと云う言葉も許される。併しもし、理解がその某性格を(模写説的譬喩を借りるならば)その儘[#「その儘」に傍点]受け容れるのでないならば、即ち理解が自己の何かの働きによってこの某性格を匡めて理解するのであったならば、それは理解ではなくして一つの人工的加工――説明[#「説明」に傍点]――に外ならないであろう。それは一種の誤解[#「誤解」に傍点]である。理解するに先立って性格が客観的に成立しているというような考え方を吾々は許さないが、仮にそのような立場*の言葉を借りて語るならば、今のような場合は客観がその儘主観に写らなかった場合に相当する(これは所謂誤謬である)、理解が理解すべき某性格に対して、自己の持つ理解という[#「理解という」に傍点]烙印を押すならば――そして之は理解が自己の何かの働きによってこの某性格を匡めて理解することであるが――、即ち、某性格をば自己の性格――「理解されたる」と形容すべき性質――を以て覆うならば、そうすれば、某性格は消えて理解の性格だけが現われなければならない。これが向の一種の誤解である。というのは理解の性格を与えることは常に次のような承認を与えることになる、こうは理解したが実際はどうあるかを知らない、と。「私はそう思う」とか「彼の考えによれば」とか云う場合は、「私(又は彼)によって理解されたる限り」という条件を提出する場合であるのであるが、このような条件はとりも直さず理解の性格[#「理解の性格」に傍点]に相当する。もし或る性格を絶対に把握したと思われるならば、「私は(又は彼)が理解した限りは」という断わり書きは無用である筈である。故に理解が完全な理解であるためには理解自身は「理解されたる」という性格を、理解されるべき某性格に押しつけてはならない。かくて理解はそれ自身としては、理解されるべき性格に対しては、無性格[#「無性格」に傍点]でなくてはならないことになる(無論吾々が今理解[#「理解」に傍点]を語る時は、その理解は理解という性格を有っている。しかし理解を理解している処の理解は無性格である)。理解が無性格であればこそ、ものの性格がありのままに理解出来るのである**。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
* 主観と客観との二面の対立を仮定しこの両者の関係づけによって認識[#「認識」に傍点]を説明[#「説明」に傍点]する立場、之は認識論と呼ばれる。併しかかる認識は理解とは無縁である。理解は主客の対立と関わり合う必要も理由もないから。従って表象[#「表象」に傍点]又は観念[#「観念」に傍点]――それは主観[#「主観」に傍点](その限り又意識[#「意識」に傍点])である――は理解と関わりがない。故に又概念[#「概念」に傍点]とも関係がない。
** もし理解が何か働きを有つとするならば、例えば理性や意志や又は自我の働きであるとするならば、理解されたものはこれ等の性格を有たねばならぬ。例えば物質は物質の性格として把握される代りに、理性・意志・自我などの所産として(それ等の性格を有つものとして)説明[#「説明」に傍点]される。茲に形而上学が成立する。
[#ここで字下げ終わり]
さて理解の無性格は直ちに概念の無性格を要求する。某概念は某性格の概念であるから、その限りその概念は某性格を有つと云うことは出来る。けれどもこの概念は概念という性格[#「概念という性格」に傍点]を有ってはならない。概念「直観」が、直観概念が、もし概念という性格を有つならば、即ち概念でしかないならば、この概念は直観[#「直観」に傍点]の概念ではなくして概念[#「概念」に傍点]の概念になって了う。かくて直観[#「直観」に傍点]は消えてそれと正反対な概念[#「概念」に傍点]が残る。かくしては直観という概念自身[#「概念自身」に傍点]が成立しなくなるであろう。概念が自己の性格を有つ時、却ってその存在を失うことすらあるであろう。概念が概念であるためには、却って自分自身は無性格でなければならない。
把握的概念は無性格である。之に反して構成的概念は性格を有つ。否、概念一般が概念という性格を有とうとすれば、それは必然に構成的概念になる外はないのである。何となれば、概念という性格を持つことによって初めて、概念は独立[#「独立」に傍点]し、それ自身の世界を構成[#「構成」に傍点]し得るのであるから。であるから吾々が一般に概念に就いて語る時、常に先ず、それが無性格であるかないかを決めてから語らなければならないであろう。これを混同する時、重大な結果を齎す。例えばヘーゲルの概念[#「概念」に傍点]を、絶対的[#「絶対的」に傍点]な、独立[#「独立」に傍点]な、自己発展的な理念、と解釈し得るならば、それは性格ある概念――構成的概念となる。その時この体系は観念的なるもの――それの性格が概念である――の所産の集成として説明され、形而上学となるであろう*。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
* 或る人々は静的[#「静的」に傍点]実在を想定する哲学をのみ形而上学と呼ぶのを当然と思い做す。けれども吾々にとっては実在の絶対化・独立化こそ夫である。絶対化・独立化は必ずしも静止化[#「静止化」に傍点]ではない。
[#ここで字下げ終わり]
吾々の概念は無性格である。之を性格者と考える時多くの批難が吾々の概念に向けられるであろう。吾々の概念が一切のものを観念化[#「観念化」に傍点]しはしないかという質疑がその一つである。吾々の概念が一切のものを論理化[#「論理化」に傍点]しはしないかという質疑がその二である。併し再び云おう、概念は無性格である、それは観念的[#「観念的」に傍点]という性質も論理的[#「論理的」に傍点]という性質も持ちはしない。
概念は常に名称[#「名称」に傍点](名辞[#「名辞」に傍点])を有つことが出来る。或る概念をどの言葉によって名づけようとも一応は勝手であるとも考えられるであろう。併し吾々が出会う殆んど総ての場合は、或る課せられた概念をば、既知の言葉を以て名づける場合であることを、注意しなければならない。或る課せられたものを観念と呼ぶことによってそれの概念を成立せしめるか、或いは物質と呼んでそうするかが、問題となるように、既知の――歴史社会的に与えられたる[#「歴史社会的に与えられたる」に傍点]――言葉の内から、この概念に適すると思われる言葉を採用して、命名[#「命名」に傍点]するのである。処がこの場合の命名は決して勝手であることは出来ない。歴史社会的に与えられた言葉は単なる発言の記号、約束、ではなくして、慣性的に一定した意味を有ち、既知の概念の表現であるから、この命名は実は、旧き概念[#「概念」に傍点]の或る適当なるものを以て新しい概念[#「概念」に傍点]を包摂することに外ならない。処で旧き概念は夫々一定の性格を云い表わす。故に命名とは課せられた概念が如何なる性格を云い表わすものであるかの決定である。そうすれば命名とは性格の理解でなくして何であるか。殆んど総ての場合、命名とは理解である。それ故或るものを何と名づけるかは人々の云い放つように単に「言葉の問題」ではない。その性格を理解しているかいないかの問題である。蓋し言葉は概念から独立に理解することは出来ないであろう(以下言葉[#「言葉」に傍点]は概念[#「概念」に傍点]と同じ資格として語られる)。
処が概念の持つ名称はそれにも拘らず、それだけが独立して様々の変容を受け、遂にはそれが表現する筈の元来の概念を失って了うことが、事実上起こり得る。例えば意識という名称は様々な変容を経た揚句遂には、もはや意識と呼ぶ理由[#「理由」に傍点]のない概念にまで就くことが出来る。この時意識という名称は意識という概念から離脱し、従って意識として理解されるべき性格[#「性格」に傍点]を云い表わすことを止めるであろう。それは死語となる。さてこの場合変容は何処まで許され、何処から先は禁じられるか。概念は今云った通り理解されて――命名されて――成り立っている、概念の成立には性格の理解、命名の理由が潜んでいた。概念は常にその成立の動機[#「動機」に傍点]に束縛されている。それであるから概念が一方に於て一定の性格を、又他方に於て一定の名称を手放さないためには、この概念は常にその成立の動機に忠実[#「忠実」に傍点]でなくてはならない。故にこの動機を忘却[#「忘却」に傍点]する時その名称の変容はその点に於て禁止される必要がある(この禁止を無視することは表象散漫の症状となって現われる――個人的にも社会的にも。例えば名称の戯画的適用)。又吾々が概念を行使する場合も亦、概念の動機を忘却することは許されない。もしそうでないとしたならば、例えば吾々は悪しき意味での抽象的概念[#「抽象的概念」に傍点]を所有することになるであろう。その成立の地盤との連関――それが動機である――を省ることなくして勝手
前へ
次へ
全13ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング