に構成される。かくて矛盾律の整合――之はとりも直さず論理的構成[#「論理的構成」に傍点]を云い表わす――だけを体系の基準とする公理主義は、ただ数学のような論理的要素[#「論理的要素」に傍点]の構成体系に於てのみ、初めて発生することが出来るのである。かくて数学は論理的要素から論理的に構成される。そしてこのことは又形式論理学に就いても同じであるであろう。論理はこの場合、この意味に於て構成性[#「構成性」に傍点]を有つ。かく構成性を有つが故に、例えば実在から独立した論理自身の領野というものも成立することが出来る。処が又一方形式論理学及び数学は独特の意味に於ける概念[#「概念」に傍点]の体系である。故にこの場合の概念は構成性を有つことが必然となる。既に挙げた群・環などは云うまでもなく、数又は点・線などに至るまで、近世の数学者が指摘するのを怠らない通り、数学の対象は何れも終局は「定義され得ない物」に基くのであるが、之は却って数学的概念が論理自身の独立の領野に於て構成され又は論理的要素として之を構成する処の、その構成性を告げているに外ならない。形式論理学に於ける概念は又、実在乃至存在から、或いは知覚乃至表象から、区別された「概念」という独特の存在(無論特殊の意味に於ける)を有つ処のものである。例えば自然ではなくして自然という概念[#「概念」に傍点]――その基体は言葉でしかない――とか、直観ではなくして直観という概念とかのように、それは外見上自己以外の何物かを意味し云い表わすかのように見えながら、実は却ってそれ自身をしか云い表わさないような、もはや概念以外の何物でもない処の、概念[#「概念」に傍点]という独立の存在を有つ(数学乃至数学的論理学に於ける文字(Charakteristik)はかかる存在の記号に外ならない)。それであるから構成的概念は、それが論理的なる領域に於て構成され、又それが論理的なる領域を構成する点を捉えて、正当に論理的[#「論理的」に傍点]として性格づけられることが出来る。さてこの論理的概念=構成的概念をば、やがて説明される理由によって、概念と呼ぶことをさし当り控えるであろう。
第二の種類の概念は把握的概念[#「把握的概念」に傍点]と呼ばれることが出来る。把握的概念は構成的概念のように、概念という特殊の存在を云い表わすのではない。そうではなくして常に他の何物かを――概念ならぬ何物かを――意味し、理解せしめ、把握せしめる処の概念である。例えば自然という概念[#「概念」に傍点]ではなくして云わば自然[#「自然」に傍点]に関する概念のように、この概念に於ける存在は概念ではなくして――向の構成的概念ではそれが概念であった――正に自然そのものでなければならないのである。それ故この概念によって最も広い意味に於ける実在――論理の世界から区別された実在――に関する概念が初めて成り立つことが出来る。把握的概念は実在を徴候づけることが出来る―― semantischer Begriff。この概念は、例えば自然概念として、無論自然それ自身ではなくして自然概念[#「概念」に傍点]であるのであるから、その限り論理的[#「論理的」に傍点]と呼ばれる理由はなくはないであろう。けれどももし之と構成的概念の有つ論理的とを同一視し、それによって何かの結果を惹き出そうとするのであったならば、吾々は云わねばならぬ、把握的概念は論理的ではない、と。何となればそれは構成的ではないから、そして論理が構成的である時にのみ論理的という形容詞は使われ得るのであったから。
さて二つの概念、構成的概念と把握的概念を得た。処で前者はより専門的であり後者はより日常的である(日常的と専門的の区別は後を見よ)。吾々は日常語として[#「日常語として」に傍点]より根柢的な把握的概念を、概念として採用する。従って向に示した通り、構成的概念はさし当り概念ではない。蓋し構成的概念は把握的概念から派生し、従って吾々は之をただ派生的な意味に於てのみ概念と呼ぶことが出来るであろう――但し日常語としての概念として。術語としての概念としては構成的概念がより根本的であるかも知れないが。
併し概念(把握的概念)は理解(把握)によって説明される約束であった。
理解(把握 Greifen)と概念(Begriff)とは勿論一つではない。けれども仮に把握を時間的に起こる一つの働きに譬えて見よう。その時概念は第一にこの把握という働きの結果[#「結果」に傍点]に譬えられることが出来るであろう。把握されて得た処のもの、それが概念――把握的概念――と考えられる。白い物が、白い物の概念として、即ち白い物として、把握された[#「された」に傍点]場合が之である。第二に概念はこの働きの出発点[#「出発点」に傍点]に譬えられるであろう。白い物として把握されるべき[#「べき」に傍点]白い物の、概念が把握される場合。又最後に概念は把握の働きを遂行せしめる処の運動のエージェント[#「エージェント」に傍点]に譬えられるであろう。把握は常に[#「常に」に傍点]概念によって[#「よって」に傍点]遂行されると考えられる場合が之である。この譬喩によって知られる通り、把握[#「把握」に傍点]は把握的[#「把握的」に傍点]概念によって行なわれるのである。理解する[#「する」に傍点]とは概念を有つ[#「有つ」に傍点]ことに外ならない。前者は一つの verbum を、後者はそれに対する substantivum を云い表わす言葉と云うことが出来るであろう。ヘーゲル的術語を借りてよいならば概念は把握の 〔Fu:r−sich−sein〕 であると考えられる。把握とは概念する[#「概念する」に傍点]ことである。人々は吾々のこの言葉を承認しないであろうか。併し吾々はこの言葉が正しいか否かを人々に問おうとするのではない、却って吾々の概念[#「概念」に傍点]は把握に対してこのような関係を有つものとして理解されねばならぬということを、吾々は人々に求めるのである。吾々は寧ろこの要請[#「要請」に傍点]に基いて概念を定義[#「定義」に傍点]してよいであろう。さてそうとすれば吾々の目的――概念を理解によって説明するという目的――にとって有利な一つの法則[#「法則」に傍点]を得る、概念は理解の対自であるという条件の下に、吾々は常に理解と概念とを統一的に取り扱うことが出来る、という法則。理解と概念との統一、之が吾々が或いは理解、或いは概念、と呼ぶ処のものの真理である。故に理解に就いて云うことの出来たことは、その儘、但し今の条件の下に、概念に当て嵌まらなければならない。
概念が理解の対自であるという今の条件を理由として恐らく人々は云うであろう、であるからたとい理解がどうあるにせよ少くとも概念は論理的[#「論理的」に傍点]でなければならない、と。理解することが論理的ではないにしてもその理解の固定した断面とも云うべき概念は論理的存在ではないか、と。処で吾々はそのような主張又は杞憂を防ぐために、特に把握的概念が論理的ではない[#「ない」に傍点]ことを指摘しておいたのである。対自性によって論理的となるもの、それは恐らく構成的概念――それは論理的であった――であろう、把握的概念の与り知ったことではない。
今や吾々は理解(把握)を借りて之に基いて概念(把握的概念)を説明することが出来る、そのための法則を今吾々は掲げた処であった。把握は静観的であったばかりではなく実践的であった。故に概念は静観的[#「静観的」に傍点]であるばかりではなく実践的[#「実践的」に傍点]でなければならない。之は人々の耳には不可思議に響くかも知れない、実践性を有った概念とは(実践的なるもの[#「実践的なるもの」に傍点]に就いての概念ではなくして明らかに実践性[#「実践性」に傍点]を有った概念である)。併し今の場合の実践的は実践を必然ならしめる契機となることが出来るという意味であったのを憶い起こさなければならない。概念が行動するなどと云うのではない。尤も単に言葉[#「言葉」に傍点]を以て表現[#「表現」に傍点]するという意味での把握的(表現的[#「表現的」に傍点])概念だけを概念と考えるならば、それが実践的であるという言葉は、今云った意味に於いても、まだ軽率であるに違いない。併しかかる表現的概念を適当に[#「適当に」に傍点]――その日常性にまで――拡張することをこそ、吾々は把握からの口授によって教えられるのである。その時概念は単に言語的に表現[#「言語的に表現」に傍点]するものであるばかりではなく、実践的に表現[#「実践的に表現」に傍点]する――行動する――ことを必然ならしめる契機となるものでなければならない。実践の根柢には把握があり、その限り又把握的概念があるのである。次に、把握は理論的であったと共に情意的であり得た。故に概念は理論的[#「理論的」に傍点]であると共に情意的[#「情意的」に傍点]でなければならない(把握的概念は理論的[#「理論的」に傍点]ではあり得る、併しそれは無論論理的[#「論理的」に傍点]であることとは異る)。再び人々は疑わしげに聴くであろう、概念が情意的であるとは。一体そのようなものが何故概念の名に値いするのか、と。けれども人々を不意に襲わないためにこそ、吾々は理解の説明の迂路によって概念を説明しようとするのである。例えば人々は友人の友情を理解しないであろうか。併しこの理解は理論的であるか(吾々は常に日常語を取り扱っているのを忘れてはならぬ)。彼の友情を理解することは彼の友人となることであるが、それは彼に対して友情を持つことである外はあるまい。そうすれば彼の友情を理解することは彼に対する友情そのものでしかあり得ない。人々は理論的[#「理論的」に傍点]友情を持つと云うか。処で理解の対自性が概念であった。友情の理解の対自性は友情の概念でなければならない。尤も友情を持つことと友情の概念を持つこととは別であると云うであろう、明らかに別である。ただ人々によれば前者が恐らく情意的であるに対して後者が恐らく理論的である迄である。吾々は何も理論的概念を否定しなかった。ただ之に限らなかった迄である。かくて把握的概念は情意的であり得る。
之が吾々の「概念」である。それは或る種類の哲学に於て用いられて来ている術語「概念」ではない。もしそのような術語として之を理解するならば、吾々の概念の説明はそれ自身一つの矛盾の外ではなかったであろう。之に反して吾々の概念は出来るだけ通俗的に、日常語として理解されなければならない。その時日常語「理解」が許される処には又必ず概念という言葉が権利を有つ。所謂概念をあのように悪む芸術に於てすら作品は一つの概念の(或いはイデーの)展開として説明される、吾々はそれを何か仔細げにいぶかる理由を有たない*。
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* 概念とはそれでは要するにイデーであるのか、と人々は尋ねるかも知れない。けれどもイデーは理念[#「理念」に傍点]としても観念[#「観念」に傍点]としても概念[#「概念」に傍点]としても意味を有つ。その問いは問題を単純化する代りに混乱させるに過ぎない。それに又イデーという術語[#「術語」に傍点]を以て吾々の概念を説明することを求めること自身が、無意味である。
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人々は最後の疑問を提出し得るかのように想像するに違いない。それはこうである、なる程概念をそのように「あれもこれも」を意味するものと仮定するのは勝手であるが、少くとも理論的な概念と情意的な夫とを区別するには区別の標準がなくてはならないが、その標準が再び従来用いられて来ている「概念」の有無によって与えられるのではないか、と。人々がこれを理由として吾々の概念――それは吾々が仮構したものではなくしてただ吾々が日常生活に於て指摘した事実に外ならない――の困難を見出したと想像するならば、それは完全な誤りである。日常語としての概念の内に従来の――哲学的術
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