空間概念の分析
戸坂潤
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)匡《た》めて
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)概念の分析[#「概念の分析」に傍点]
〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔Fu:r−sich−sein〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://www.aozora.gr.jp/accent_separation.html
*:注釈記号
(底本では、直前の文字の右横に、ルビのように付く)
(例)情意的[#「情意的」に傍点]である*
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一 準備的考察――概念の分析[#「概念の分析」に傍点]に就いて
吾々の問題を正当に提出し得るためには、提出に先立って、次の準備が是非とも必要である。
第一に、吾々は何を概念[#「概念」に傍点]と呼ぶか。
その説明を試みるために、理解[#「理解」に傍点]という言葉から出発しよう。考え・思惟し、知り・判り・認識すること、即ち知識と知恵、並びに夫と直ちに一つではなくても夫に基く限りの一切のもの、一言で云うならば最も源泉的な意味でのロゴスの働きにぞくすもの、之を人々は最も広い意味に於て理解と呼んでいる。人々の言葉の内にあっても、この言葉は最も重大な役割を占め又最も必要な表現の一つであるから、従って又それだけ人々が之を語る意味は様々であるのが自然である。しかし今こう云った理由は、理解という言葉が学者達の術語として一致を欠いているからではない。吾々が或る言葉を説明する時、それがもし日常語[#「日常語」に傍点]であるならば、無論之を日常語として説明しなければならない。併し之に反してもしそれが専門語[#「専門語」に傍点]であるならば、吾々は第一にそれを或る一部の専門家が定義した名辞として、第二にその専門家のぞくす専門的世界の術語[#「術語」に傍点]として、之を説明しなければならない。併し更に重大なことは、この術語が日常生活に於ける言葉――日常語――から、どのような手続きを経て派生して来たかを探ねることである(日常語と専門語との区別とその区別の権利は後を見よ)。尤もこの専門が realistisch な部門であるならば(例えば数学や物理学のように)、術語が発生する地盤としての日常語を探ねることは、必ずしも意味のある労作ではないかも知れない。誰も群[#「群」に傍点]とか環[#「環」に傍点]とか場[#「場」に傍点]とかヴェクトル[#「ヴェクトル」に傍点]とかいう術語を日常語から出発して説明出来るとは思わないに違いない(但し数などは之と趣を異にしている)。之に反してもし humanistisch な部門であるならば、術語が日常語に於て有つ地盤を検討することは多くの場合非常に必要であるであろう。そして哲学――この多義な言葉を最も普遍的に用いるとして――に於ては、どのような場合にも、このことが絶対に必要である。もしそうしなければ、哲学は常識[#「常識」に傍点](その正確な意味は後を見よ)からの通路を有たないこととなり、入口なき象牙の塔の内に閉じ込められて了うこととなるであろう。数学・物理学などにとって通路を形造っているものは、計算や実験であるが、哲学にとっては之に相当する通路が失われて了うことになる。そこで理解という言葉が様々に語られると今し方云ったのは、この言葉が専門家達の術語として一定していないということを云おうと欲したのではない。そうではなくして正に、それが日常語として、――そして日常語の常として――一定していないことを指摘したかったのである。さて理解という日常語はこのようにして多義である。併し多義なロゴス――言葉――の内には、おのずからロゴス――関連――がなくてはならぬ。
或る人は理解を何かしら受動的[#「受動的」に傍点]なものとして考える。何物かを例えば創造することは能動的であるが、能動的に創造されたこの物に就いて受動的に観照することが、理解である、とそのような人々は思い做す。この思い做しに基いて理解は表現[#「表現」に傍点]――それは能動的である――から区別されるのが普通である。併し表現は記号[#「記号」に傍点]から区別される、という意味は、表現は常に生命あるものの表現である外はない。処が生命を表現するには表現者が自己の生命を、即ち表現者自身を、何かの意味に於て既に理解[#「理解」に傍点]しているのでなければならない。そうでなければ表現者は如何に[#「如何に」に傍点]自己を表現すべきかを決定する自由を持たないことになる、そしてこの自由を欠く時、表現は表現ではなくして模写に過ぎなくなって了う。表現するには表現者自身の理解がある筈である。この理解と表現されたものの理解(向の観照のような)とが同じであるとは、併し吾々は考えない。二つは同じ理解という言葉に値いする、それにも拘らず之を同じと考える理由はない。この関係は次のことを帰結する。表現されたものを理解することばかりが理解の名に値いするのではないということ(この場合理解は常に日常語として語られているのを忘れてはならない)。故に日常語としての理解は、必ずしも今云った意味に於て受動的なものには限られない。それには受動的ではなく従って能動的[#「能動的」に傍点]である場合も許されなければならない。理解に代り理解のこの能動性をも云い表わす言葉を吾々は把握[#「把握」に傍点]に於て見出すのである。表現を理解すること――それは受動的であった――も、表現すること自身――それは能動的であった――も、把握である。表現されたものが把握されねばならぬと同時に、表現するためにはまず把握していることが必要である、表現すること自身が把握ですらあるのである。なる程受動的な理解であっても或る能動性(積極性)は有つ、この理解の力によって、単に深く見えたものが初めて透明にされるからである。又それと同じに、能動的な把握であっても或る受動性(消極性)は有つ、把握は無から有を把握し出すのではないから。併しそれにも拘らず所謂理解[#「所謂理解」に傍点]は受動的であり、把握[#「把握」に傍点]としての理解は能動的であると考えられなければならない。けれども把握とは何か。
受動的理解は静観[#「静観」に傍点]の立場に止まる、――観照がその適例であるであろう。受動的又は能動的理解は一般に、理解されるべきものを匡《た》めて理解するのではなくして、それをあるが儘に理解することである(その説明は後に与える)、処が受動的理解は更に、静観的に[#「静観的に」に傍点]あるが儘に之を理解する立場にのみ止まり、之を一歩も超えることをしない。吾々は或る物――例えばモデル――をそれがあるがままに理解する場合にしても、之を変革すること――例えば創造――を必然ならしめる場合があるであろう。表現する場合に之に先立つ理解が夫である。受動的理解は之をなし得ない――それは静観的である(実践[#「実践」に傍点]理性から区別された理解―悟性[#「悟性」に傍点]を見よ)。然るに能動的な把握は恰もこの点に於て所謂理解とは性質を異にしている。把握は向に示された通り表現の把握であることが出来たから、――そして表現の把握は表現の理解に相当したから――、その限りは静観の立場に立ち、必要によっては之に止まることも出来るであろう。把握はこの限り理解と全く同じ能力を有ち、従って把握は理解を完全に代理する。併し把握は単に之に止まらず、更に理解されるべきものの変革を必然ならしめる契機となる性質を持つ。この意味に於て把握は実践的[#「実践的」に傍点]であると云うことが出来るのである。但し、把握が実践[#「実践」に傍点]であるというのではない、把握は実践それ自身ではない、併し実践を必然ならしめる契機をなす、というのである。かくて所謂理解は静観的[#「静観的」に傍点]であり之に反して把握は実践的[#「実践的」に傍点](それは静観的を含むことが出来る)である。処で単に理解するということは理解されるべきものを少しも変革することは出来ない。併し理解が真に理解であるためには、その理解によって理解されるものが理解者の使駆に委ねられ得ることが必要な条件であるであろう(一つの定理を理解するとはこの定理を応用[#「応用」に傍点]し得るということである)。この積極的能動力――実践的――理解を云い表わすものが把握であった。故に把握は所謂理解に較べてより根柢的な理解を意味する(常に日常語としてであることを再び注意しよう)。
理解一般は更に、理論的[#「理論的」に傍点]理解に限られない。何となれば向の例に於て、創造されたるものの理解は、もし理解が理論的に限ると考えられたならば、恐らく意味を失って了うであろうから(そして理論的でない上は尚更論理的[#「論理的」に傍点]ではあり得ない)。現にディルタイにあって理解は情意的[#「情意的」に傍点]な理解である必要があった。そうすれば把握も亦――実践性に於てのみ所謂理解から区別された把握も亦――、理論的に限られる理由はあり得ない(まして論理的である理由は尚更ない)。把握は又情意的でもあり得なければならない。――かくして二つのことが明らかにされた。一方に於て把握は静観的[#「静観的」に傍点]に止まらず実践的[#「実践的」に傍点]であり、他方に於て理論的[#「理論的」に傍点]に限らず又情意的[#「情意的」に傍点]である*(但し日常語として)。
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* 理論は情意に対し、実践は静観に対する。二つは原理を異にした分類である。意志が実践であるのではなくして意志の実践が実践なのである。理論[#「理論」に傍点]と実践[#「実践」に傍点]とは却ってこのことによって、結び付く意味を見出すことが出来るであろう。
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理解の二つの意味が区別された。理解と把握。そして後者が前者を含み、その根柢をなすことも亦説明された。尤も人々はどの意味に於てでも、理解というこの日常語を用いる権利はあるであろう。日常語に於て最も根柢的――但し日常語として根柢的な――名辞を採用する必要のある吾々は把握を択ぶ。理解とは把握(Greifen)である。けれども求めるものは理解ではなくして概念[#「概念」に傍点]であった。
把握(Greifen)から連想されるものは概念[#「概念」に傍点](Begriff)である。理解は普通より多く日常語として通用するから、吾々は理解の説明に於ては日常語としての夫から出発した。之に反して、概念は普通より多く専門語―術語として通用すると思われる。吾々は今度は専門語としての「概念」から出発し、之を日常性にまで追跡することによって概念を説明するであろう*(日常性が「より多く通用すること」、普通性、でないことを後に述べる)。
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* 吾々は術語としての概念[#「概念」に傍点]を術語としての表象[#「表象」に傍点]及び観念[#「観念」に傍点]から区別する。日常語として三者は相似た意味を有つかも知れない、併し吾々の出発は術語としての概念であるからこの区別は最も必要である。但しこの区別を改めて述べる余地はないと思う。
[#ここで字下げ終わり]
概念は根本的に異った二つの種類を有つ。その一つは構成的概念[#「構成的概念」に傍点]である。論理学及び数学は或る論理的なる要素[#「論理的なる要素」に傍点]によって論理的に構成[#「論理的に構成」に傍点]された体系である。というのは例えば斉しく理論的であっても、物理学は決して論理的なる要素[#「要素」に傍点]の体系ではない(尤も特殊の哲学的立場――汎論理主義のような――に立つ時は論外である)。仮にマッハをして云わしめれば、感覚的要素――この要素自身はどのような意味に於ても論理的要素ではない――の体系こそ夫である。之に反して先ず数学は論理的要素(例えば集合論に於ける要素の如き)に基いて論理的
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