もし空間が空間表象として性格づけられるのが本来であるならば、空間は意識[#「意識」に傍点]という性格を有たなければならないのである。そこで、空間の性格は果して意識であるか。
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* 〔Stumpf, U:ber den psychologischen Ursprung der Raumvorstellung〕 を見よ。
** カントの形式的直観は現象論の範疇的直観[#「範疇的直観」に傍点]の内に含まれることが出来るかも知れない(但し現象学に於ては直観と知覚とはカントに於ける意味の区別を持たない)。そうすれば空間は一つの範疇的[#「範疇的」に傍点]直観であることになるかも知れない。之に反してカント自身の言葉に従うならば、空間は感性的[#「感性的」に傍点]直観でなければならない。
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 意識という言葉の意味程不定なものはない。或る人は之によって物体に対する精神という実体を意味し、又或る人は之によって認識能力としての主観を意味する。或る時は一つの社会現象を又或る時は自覚をすら意味することが出来る。併し吾々にとって今問題となるのはこの何れでもなくして正に現象[#「現象」に傍点]としての意識である。現象性としての「純粋意識」、之が「純粋現象学」に於ける意識に外ならない、――以下フッセルルの現象学を標準として吾々の分析を行なうことが有利である。併し意識が現象であるということは何を意味するか。凡ゆるものは現象に還元[#「還元」に傍点]されることが出来る、何となればそのように一切のものを還元し得るものこそ現象に外ならないのであるから。処が意識のみは当然かかる還元を許さないものでなければならないような特殊の特長をそれ自身の内に持っているのである*。意識が現象と考えられる所以が之である。処で問題はこの還元[#「還元」に傍点]に横たわっている。還元はフッセルルによれば自然的世界の、自然的テーゼの、自然的立場の、「除外」を意味する。このような世界・テーゼ・立場を「働くことの出来ぬようにする」ことがこの還元である。それ故吾々の言葉を以て之を云い換えるならば、自然的(之が何を意味するかは後にして)という性格を有っていた処の世界・テーゼ・立場はなる程消滅しはしないが――それは「括弧に入れ」られるに過ぎない――、併しそれの自然的という性格自身は消滅しなければならないであろう**。なる程吾々はこの世界を無視するのではない、却ってそれを現象の一部分として採用するのではある。けれどもこのような現象の一部分は自然的という今の性格を有つのではなくして正に現象的という性格を有たされなければならないであろう***。それ故この還元は以前にあった性格を他のものに還元することに外ならない。即ちこの還元性は以前にあった処の性格の有つ優越性を否定する処の還元性でなければならない筈である。他の性格の優越性を否定するものは一般にそれ自身又優越性でなければならない。故にこの場合の還元性とは実は一種の優越性なのである。自然的立場に立つ時、ものの有った処の性格は、現象学的方法[#「方法」に傍点]を通じて、現象の性格によって優越される。処が吾々が已に用意しておいた処の還元性は優越性であることは出来ない筈であった。前の場合に於ては或るAなる性質に還元されることによってBなる性格が失われる憂いはなかった。然るに今の場合に於ては、現象に還元されることは自然の性格を失喪することである。それであるから、現象学に於ける還元性は吾々の所謂還元性ではない、それは優越性である(還元することが何故優越することでなければならないか。併しそれであればこそ現象学的方法[#「方法」に傍点]であるのではないか。方法としての還元は、その方法の優越が主張される限り、単なる還元ではなくして還元による優越を意味せずにはいられない、それは当然であるであろう。それ故この還元によって――即ちこの方法によって――かの除外されるべき性格によって提出の動機を与えられる処の一群の問いは、除外される、その問いという働きを停止されるであろう)。さて還元が優越であれば優越されるべき以前の性格を優越する筈の新しい性格が必要となる(之によって、以前の性格によって提出される理由のなかったような一群の新しい問いが提出されるということも生じて来るであろう)。還元とは以前の性格の失喪であり、新しい性格の導入であることを記憶する必要がある。
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* 〔Husserl, Ideen zu einer reinen Pha:nomenologie und pha:nomenologischen Philosophie, S. 113〕 及び S. 59 参照。
** ソフィストの如くこの世界を否定するのでもなく、又懐疑家のようにこの世界の存在を疑うのでもない、ただ空間的・時間的存在に就いての一切の判断が全く閉されるのである、という(同上 S. 56 参照)。処が世界に於て何かが存在するかしないかという判断こそ、自然的なるこの世界の性格の云い表わしなのである。
*** 同上 S. 187 参照。
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 けれども還元を一概に論じることは許されない。還元は除外であったが、除外されるものが何であるかをもう少し立ち入って査べて見よう。それは「空間的・時間的実在」である。「吾々にとってそこに在るもの」、「目の前にあるもの」、一言にして云うならば「Da[#「Da」は縦中横] 性格[#「Da[#「Da」は縦中横] 性格」に傍点]」を有するものと考えられる。還元とはこのような実在[#「実在」に傍点]が除外されることを意味した*。併しながら実在(Wirklichkeit)とは何を指しているのであるか、と吾々は問わねばならない。それは事実[#「事実」に傍点](Tatsache)であるのか、或いはそうではなく[#「そうではなく」に傍点]して、存在[#「存在」に傍点](Dasein)であるのか。或いは又両者の総和であるのか。何となれば一般的なる原理に対する個別的なる経験が事実[#「事実」に傍点]であり、之とは異って、無いものに対する在ることが存在[#「存在」に傍点]であるのであって、仮に両者が常に結び付いているにしても、両者は全く動機を異にした二つの概念であるからである。もしこの区別を承認するならば、一方の除外は必ずしも他方の除外を伴うことを保証しない。処でこの区別をフッセルルがどう与えているかを吾々は知ることが出来ないように思われる。実在と呼び存在と名づけているものも結局事実[#「事実」に傍点]を指すに外ならぬように見える**。それ故実在の除外は個別的な事実[#「事実」に傍点]の除外を意味し、この還元によって得られるものは本質[#「本質」に傍点]である――形相的還元[#「形相的還元」に傍点]。還元は新しい性格を導き入れる筈であったが、この還元によって得られる性格は可能性[#「可能性」に傍点]である。形相的還元に依って可能性の性格は実在の――実は事実の――性格を優越する。けれども吾々はこのような還元にはあまり関心を有たないで済むであろう。というのは、元来空間は到底、今云ったような意味での事実[#「事実」に傍点]にぞくするのではなくして、已に述べた通り存在[#「存在」に傍点]にぞくす筈であった***。従って形相的還元――それは事実の除外である――によって空間は何の影響をも受けないのである。空間は或る意味に於て(前を見よ)本質的関係ですらあった。それに吾々の今の問題は意識と空間との関係であった。
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* 同上 S. 53 及び S. 54 参照。
** 「根本に於ては、フッセルルは自ら云うように実在[#「実在」に傍点]を除外したのでは全くない。寧ろ一切の個体的・具体的所与一般を除外したのである。」(W. Ehrlich, Kant und Husserl, S. 149)
*** 事実乃至事実(〔real=wirkungsfa:hig〕)と存在(Objekt)とを区別したのはマルティである。彼によれば空間は Objekt ではあるが 〔Realita:t〕 ではない(Marty, Raum und Zeit, S. 97 及び S. 148)。
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 存在(Dasein)と事実(Tatsache)との結び付きは実在(Wirklichkeit)の概念である。実在はこの二つの契機を有つからして、時にはそれが事実と同じに取り扱われ、又時には存在と同じに見做される場合も出て来るのである。けれども吾々にとっては存在と事実との区別が今の場合是非必要であるということに気付かねばならない(但し今問題となる実在は「空間的・時間的実在」とも呼ばれるべきものに限られる、心理的実在とも云うべきものは論じる限りではない。それ故又事実も存在も云わば空間的・時間的なそれに限られる。――吾々は前から存在を空間的存在に限定していた)。処で事実の除外は必ずしも存在の除外を伴わない。例えば机[#「机」に傍点]が在[#「在」に傍点]る代りに椅子が在るとする。この場合事実としての机と椅子とは無論別個な事実である。併しこのような個別的事実を除外すれば恐らく物一般が在る[#「在る」に傍点]ということが残るであろう。事実は除外された、併し存在は除外されない。之に反して存在の除外は必然に事実の除外を伴わなければならない。もし在るともないとも云う理由がない――それが存在の除外の結果である――ならば、机が又は椅子が在るとか無いとか云う理由もあり得ないであろう。かくして存在は事実よりも根本的である。それ故実在に於て存在は事実に較べてより根本的な契機をなす。この契機を失う時実在は実在であることが出来なくならねばならぬ。この意味に於て実在は存在であると云う言葉には充分の理由があるであろう。存在は実在そのものではない、併し実在をして始めて可能ならしめる契機がそれである。それではそれはどのような契機であるか。実在の最も著しい特徴はその超越[#「超越」に傍点]であるであろう。実在は――それが空間的・時間的実在である以上――到底内在[#「内在」に傍点]ではなくしてその正反対である処の超越であることをその特色とする。何となればこのような超越を有たぬものは明らかに今の場合の実在の名に値いすることは出来ないから。処でこの超越という実在の根本的な契機は恰も存在の概念である。存在とは超越である。そこで現象学はこの超越――吾々によればそれにこそ存在の名が適わしい――を如何しようとするか。
 「超越的」なるものは「先験的」なるものに還元されるのである。超越的なるものは個別的でもあり得るし(存在が事実と結び付いている場合)、又本質的でもあり得る(事実が除外された場合)。併し今、形相的還元――それは事実の除外である――によって得られた超越的本質に就いて、その超越性を先験性に還元する場合を考えて見よう*――先験的還元[#「先験的還元」に傍点]。この還元に於て、超越的なるものはその超越的という性格を失喪しなければならない――中和化[#「中和化」に傍点]。そして之に代るべき新しい性格が現象、即ち意識[#「意識」に傍点]なのである。なる程この還元によって自然的世界は或る意味に於て[#「或る意味に於て」に傍点]少しも変容を受けるのではないであろう、庭前の林檎樹はその存在を否定されたり無視されたりするのではない。併し他の意味に於て[#「他の意味に於て」に傍点]は還元前の林檎樹と還元後のそれとは全く別である。というのは還元前に於てはその林檎樹は存在するものとして、その外的存在がそれの性格である処のものとして、存在した。処が還元後に於ては、存在するかしないかは問題にならぬものとして、その外的存在が別にそれの性格ではないものとして、即ち意識現象としての性格のみを有つものとして、それは現象する。
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