尤も吾々はこう云おうと欲するのではない、林檎樹の存在がこの還元に於て意識に依って構成[#「構成」に傍点]されたことになるとか、又はその存在はただ意識内に於ける存在に過ぎないとか、云おうと欲するのではない。吾々は今そのような意識の構成性[#「構成性」に傍点]を主張しているのではない。併しそれにも拘らず存在は還元に依ってその性格を失って意識としての――現象としての――性格[#「性格」に傍点]を帯びる、この場合意識はこのような優越性[#「優越性」に傍点]――それは構成性ではない――を有つ。この意味に於て還元前の超越的林檎樹は還元によって内在的[#「内在的」に傍点]となるのである。超越的存在はそのまま[#「そのまま」に傍点]内在化せられる。この場合なる程存在者そのものは少しも変容を蒙らない。併し超越的存在そのもの(存在性)はその性格――超越性――を失喪するのである。何となれば超越的存在のテーゼを一瞬たりとも離すことの出来ないものこそ、存在の、超越性の、性格でなければならないのであるから。――現象学に於ける純粋意識は優越性を有つ、それは一つの性格である。この性格が存在の性格を優越すること、それが現象学的還元に外ならない。現象学的還元を施さない時にのみ――それが自然的立場である――、存在の性格は保たれる。存在概念は一つのドクサ[#「ドクサ」に傍点](これが常識的概念にどれ程近いかを注意せよ)である。
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* フッセルル同上、S. 114 参照。
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存在は現象学に於て除外される、存在は存在の性格を失って意識の性格を有つ存在となる、そしてその限りに於てのみ存在は現象学にとって問題[#「問題」に傍点]となることが出来る。従って又実在は実在する[#「実在する」に傍点]限りに於てではなくして実在という現象[#「実在という現象」に傍点]として始めて問題となる機会を与えられる。現象学に於ては存在(従って又実在)の性格――存在ではなくして存在の性格――は意識の性格によって優越される(故に茲に於ては存在の性格[#「存在の性格」に傍点]は始めから問題となる機会を与えられていない)。今まで明らかにしたことはただこの一つの事柄であった。さて空間[#「空間」に傍点]はかかる存在[#「存在」に傍点]の性格にぞくす。空間は Tatsache でもなく又 Wirklichkeit それ自身でもない、そうではなくして Dasein が正にそれの性格でなければならない。向に注意したように存在が実在それ自身であるのではない、併し存在は実在の根本的な契機である、そしてその意味に於て存在は又実在である。空間はそれ故この意味に於て又実在であるという言葉も許されるのである。即ち空間は実在ではないにしても、実在性を有たなければならない処のものなのである。或る人々は空間の実在性を信じないかも知れない、けれども恐らくその人々は実在性の下の事実[#「事実」に傍点]を理解しているのであろう。吾々の空間は無論事実ではないと云う意味に於ては実在的ではない。又或る人々は空間の実在性を吾々の欲する以上の程度に主張するかも知れない。恐らくそのような人々に向っても亦吾々は存在乃至実在と事実との今の区別を示せば充分であるであろう。この意味に於て――そしてただこの意味のみ[#「のみ」に傍点]に於て――空間が実在性を有つことは次のことによって最も明らかに見られるであろう。表象されたる空間――空間表象[#「空間表象」に傍点]――の問題がそれである。吾々が単に或る存在を表象[#「表象」に傍点]しただけで、たといそれが実在[#「実在」に傍点]する存在ではないにせよ、すでに空間概念がそこに横たわるように思われる*。そうすれば空間は明らかに実在的ではなくして非実在的――例えば表象――であると考えられそうである。処が実在しないものに関する空間表象――ケンタウロイ表象――も決して実在的でないのではない。なる程ケンタウロイの形を有った、その事実[#「事実」に傍点]を備えたものはないであろう。けれども凡そケンタウロイが形を有つと表象することはそれが実在の空間に於て形を取って存在[#「存在」に傍点]すると表象することしか出来ない筈である。例えば吾々は之をスヴェーデンボリの天国に於て表象するのではない**。ケンタウロイは実在しないが、もし実在するとすれば[#「もし実在するとすれば」に傍点]、このような形をとって存在するであろう。ということがとりも直さずケンタウロイの表象でなければならない。それは事実としては非実在的である、併し存在としては実在的である。かくて空間表象の空間は実在的である。空間が表象されるということ――表象に還元(吾々の意味に於て)されるということ――は空間の実在性(存在)としての性格を覆うものではない。況して空間が表象である――空間の性格は表象という意識である――などと云うことにはならないことを注意して置こう。さてこのようにして空間は存在の性格にぞくす。処が現象学的還元はこの存在の性格を否定した。故に又空間の性格も之によって否定されないわけには行かない。即ち茲に於ては空間の性格は意識の性格によって優越される。かくして空間の性格は存在[#「存在」に傍点]であって従って意識[#「意識」に傍点]ではあり得ないことが結果した***。空間を表象として、知覚として又直観として理解することは少しも不都合ではない。ただ併しそれは決して空間の正当[#「正当」に傍点]なる概念ではない。何となればそれ等のものは空間の性格・優越を理解せしめる代りに空間の任意の一つの特徴に於ける還元性――吾々の意味に於ける――を云い表わすに過ぎないから。
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* 例えばエールリヒ、前掲書 S. 103 参照。
** 「天国に於ては一切の物は吾々の世界に於けると全く同じに空間に位置を占める。併し天使等は場処とか空間とかの観念を持たない。……霊界の場処の変化は状態の変化に外ならぬ。何となれば茲では場処の変化は凡ての心の状態の変化によって作用されるのであるから。……かくして接近は心の状態の類似に、遠隔はその相異に外ならないことは明らかである」云々(Swedenborg, Heaven and Hell, §191−3.)。
*** 吾々の概念がそうあったように、もし意識が又は現象が無性格[#「無性格」に傍点]であるならば、問題は全く別になるであろう。
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空間の性格は意識ではないから、意識の性格に於て現象を理解する現象学的還元によって、空間は本来[#「本来」に傍点]の問題として提出される機会を失って了う外はない。無論この場合、空間が全く問題になることが出来ないなどと云うのではない。却って空間はすでに吾々が見たように、殆んどどのような立場・方法に立っても常に何かの形態に於て問題となり得る性質を持っていた。ただ空間概念がその本来の問い方に於て、空間自身の要求する問題提出の仕方に於て、更に云い換えるならば、空間概念の性格に従って、問われる動機を、現象学的方法は不可能ならしめる理由があるのであった。それ故現象学的方法に依って空間を取り扱う時、例えばそれは空間直観[#「空間直観」に傍点]として、従って空間概念の性格を不問に付して、研究されることになるであろう。之は恰も O. Becker の貴重なる論文に於て見受けられる処に外ならない*。
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* 「それ故吾々は空間性の現象学的諸層を(第二の)個別化原理として性格づけることが出来る。これの諸要素は全部同時に根源的に与えられることが出来、従ってそれは特殊の直観性を有つ。」(〔O. Becker, Beitra:ge zur pha:nomenologischen Begru:ndung der Geometrie und ihre physikalischen Anwendungen. Jahrbuch 6, S. 77.〕)因みに彼は次のような空間性の諸層を区別した。
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┌A. 〔Die pra:spatialen Felder od. Ausbreitungsfelder〕
│ A1[#「1」は下付き小文字] 〔Sinnesfelder (Seh−, Tast− und Geho:rrichtungsfelder〕)
┤ A2[#「2」は下付き小文字] Die Organbewegungsfelder
│B. Der orientierte Raum(Hier−Ich)
└C. Der homogene(unbegrenzte)Raum
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吾々が空間概念の性格に就いて今まで分析し得た処を繰り返せば、こうである。空間の性格は第一に判断乃至妥当の性格ではない、第二にそれは対象論的可能性の性格でもない、第三にそれは意識の性格でもあり得ない。従って空間概念は、この三つの場合に従って、論理学的、対象論的、現象学的に取り扱われることによって、その性格を見失って了わなければならない。空間の性格は存在(Dasein)である。今の三つの立場に立つ夫々の空間概念は何れも専門的空間概念に外ならない。吾々の求める空間概念は常識的空間概念であった。存在[#「存在」に傍点]としての空間はかかる常識的概念に外ならない。もしこの常識的空間概念を正当に――その性格(存在)に従って――取り扱おうとするならば、それ故、独特の取り扱い方が必要であるであろう。このような取り扱い方を吾々は存在論[#「存在論」に傍点]と呼ぶことが出来る。何となれば、茲に必要であるのは存在の性格を取り扱い得る取り扱い方であるのであるから。
空間概念の性格――存在としての性格(Dacharakter)――を最もよく云い表わす言葉は世界[#「世界」に傍点]である。空間概念はその性格の上から世界概念にぞくすと云うことが出来る。之を世界性として理解する時、例えば之を表象と考えたり又は論理的範疇として片づけたり又は単なる形相と云い放ったりすることが、如何に見当を逸したことであったかを吾々は最も直接に覚ることが出来るであろう。吾々がその内に住み、それと交渉し、それと共にあるもの、そのようなものを吾々は世界として理解する。かかる世界の概念の一つが即ち空間なのである。それ故始めて吾々はそのような空間概念に基いて日常生活を営むことが出来るのでなければならない。空間は或る一定の専門的な問題に於て始めて成立する概念ではなくして、世界がそうあると同じく、常に不断に与えられている概念に過ぎない。ただそれであるからこそ却って、吾々がそれを把握するには一つの発見が必要であるに外ならない。空間はこのようにして常識的概念である。それ故又それは一つの根本概念[#「根本概念」に傍点]と云うことが出来るであろう。空間が多くの立場に於て問題となることの出来る所以はそれがこのような根本概念であることを証拠立てている。
併し茲に注意しなければならないのは、吾々の所謂存在は常に云わば空間的存在に限られていることである。それに従って吾々の所謂世界も亦常に云わば空間的世界――自然的世界[#「自然的世界」に傍点]に限られる。何故そのような制限が必要であったかと云えば、吾々の問題は空間[#「空間」に傍点]であって、存在又は世界それ自身ではなかったからである。存在又は世界が語られるのはただそれが空間の問題に必要であったからに外ならない。決して存在又は世界が語られるために空間が問題となったのではない。吾々――空間概念の分析を仕事とする吾々――にとっては、存在乃至世界そのものの問題は per accidens な問いでなければならない。であるからもし一般的に存在概念を分析しそれに付随して空間概念が取り扱われる場合があったとすれば、その結果と吾々の分析とが必ず一致し得るという保
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