証はないであろう。そしてもしその存在なるものが、物質的――空間的存在はかく呼ばれてよい理由がある――と形容し得るものではなくして、正にその反対なものとして理解される時、空間概念の解釈は必然に吾々の夫と異って来なければならない。元来空間の性格であると考えられた世界――自然的世界――は、このような場合の自然の概念がそうであるように、物質的として理解されるべき要求を有つ。物質的という言葉が不明瞭であるならばこう云い改めることが出来る、空間的世界は客観[#「客観」に傍点]として理解されるべき性格を持つと。尤も主観と客観という二つの面を対立せしめて、空間的世界がこの客観にぞくすというのでは決してない。吾々は元来空間の問題に於て――それは存在論的である――そのような主客の対立を許すことをしない。ただ、このような二面の対立を云い表わす概念としてではなく、独立な規定として、しかもそれも物質的という言葉を注解する目的の下に、客観という言葉を用いることを許されるならば(そしてそれは主観の反対である)、そのような客観であることを吾々の空間・存在・世界の概念は要求するのである。そこでもし存在がかかる客観ではなくして正にその反対である処の主観[#「主観」に傍点]として理解されるならば、そのような解釈は吾々の空間概念と分析と一致することは出来ないであろう(客観としての存在は云わば物体的[#「物体的」に傍点]存在である、之に対して主観としての存在は云わば人間的[#「人間的」に傍点]存在である。両者の対立は所謂主客の対立ではない)。そしてこのような場合を吾々はハイデッガーの空間理論に於て見出す*(この立場に於て始めて空間は空間性[#「空間性」に傍点]を用いて説明されることも出来る。之に反して吾々にとっては空間は空間性から訣別しなければならなかった。――前を見よ)。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
* 「空間が主観の内にあるのでもなく、又主観が世界を空間の内にあるかのように[#「かのように」に傍点]見做すのでもない。そうではなくして、存在論的に好く理解されたる主観[#「主観」に傍点]、即ち存在、が空間的なのである。」(Heidegger, Sein und Zeit, S. 111)
[#ここで字下げ終わり]

 最後に二つの課題が残る。第一、このようにして得られた常識的[#「常識的」に傍点]空間概念を基礎[#「基礎」に傍点]概念として、上層概念である処の専門的[#「専門的」に傍点]空間諸概念の分析――解釈を行なうこと。第二、空間概念を之と離すことの出来ないような他の根本概念――例えば物質[#「物質」に傍点]、自然[#「自然」に傍点]など――との交渉に於て分析すること。この二つを吾々は他の機会に譲らなければならない。
[#地から1字上げ](一九二八・四・一)



底本:「戸坂潤全集 第一巻」勁草書房
   1966(昭和41)年5月25日第1刷発行
   1967(昭和42)年5月15日第3刷発行
初出:「思想 第八〇号」
   1928(昭和3)年4月1日
   「思想 第八二号」
※複数行にかかる中括弧には、けい線素片をあてました。
※底本では、「”streng“」「”geistreich“」「”Ontologie des Raumes“」「”in Abhandlungen …“」の「”」のダブル引用符は字面の左下に、「“」のダブル引用符は字面の右上に、置かれています。
※底本で使用されている「〔〕」はアクセント分解を表す括弧と重複しますので「【】」に改めました。
入力:矢野正人
校正:土屋隆
2009年7月14日作成
2009年8月1日修正
青空文庫作成ファイル:
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