云うまでである。処が又この過程自身も、吾々の採用して来た処のものが、勝手に他の仕方と差し替えが出来るというのではない。吾々の採った仕方を無論吾々は唯一のものと信じているのでなければならない。ただ或る人々がこれとは異った仕方を採用しないとも限らないという可能性を承認するに過ぎない。而もこの可能性を承認することによって、吾々の仕方と他の人々の仕方とを共通の地盤の上に立て、その上で対決を迫ろうと欲するに外ならないのである。それ故得られるものが本質的であるということと、それを得る仕方も亦本質的であるということとは、今の場合一つに考えることの出来ない理由がある。もし之を一つと考えること―― Wesensschau のように――が「本質論」の欠くことの出来ない条件であるとすれば、吾々の分析はその成立に於て「本質論」と区別されなければならない。尚また成立に於て異るばかりでなく、その方向に於ても二つを同一と考える理由を吾々は有たない。「本質論」――「形相論」、「本体論」――は、「現象論」に対し、之に向うている。処が吾々の空間概念の事態の分析は、現象論ではない処の何物か[#「何物か」に傍点]に向っている
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