有つ、把握は無から有を把握し出すのではないから。併しそれにも拘らず所謂理解[#「所謂理解」に傍点]は受動的であり、把握[#「把握」に傍点]としての理解は能動的であると考えられなければならない。けれども把握とは何か。
 受動的理解は静観[#「静観」に傍点]の立場に止まる、――観照がその適例であるであろう。受動的又は能動的理解は一般に、理解されるべきものを匡《た》めて理解するのではなくして、それをあるが儘に理解することである(その説明は後に与える)、処が受動的理解は更に、静観的に[#「静観的に」に傍点]あるが儘に之を理解する立場にのみ止まり、之を一歩も超えることをしない。吾々は或る物――例えばモデル――をそれがあるがままに理解する場合にしても、之を変革すること――例えば創造――を必然ならしめる場合があるであろう。表現する場合に之に先立つ理解が夫である。受動的理解は之をなし得ない――それは静観的である(実践[#「実践」に傍点]理性から区別された理解―悟性[#「悟性」に傍点]を見よ)。然るに能動的な把握は恰もこの点に於て所謂理解とは性質を異にしている。把握は向に示された通り表現の把握であること
前へ 次へ
全124ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング