うな)とが同じであるとは、併し吾々は考えない。二つは同じ理解という言葉に値いする、それにも拘らず之を同じと考える理由はない。この関係は次のことを帰結する。表現されたものを理解することばかりが理解の名に値いするのではないということ(この場合理解は常に日常語として語られているのを忘れてはならない)。故に日常語としての理解は、必ずしも今云った意味に於て受動的なものには限られない。それには受動的ではなく従って能動的[#「能動的」に傍点]である場合も許されなければならない。理解に代り理解のこの能動性をも云い表わす言葉を吾々は把握[#「把握」に傍点]に於て見出すのである。表現を理解すること――それは受動的であった――も、表現すること自身――それは能動的であった――も、把握である。表現されたものが把握されねばならぬと同時に、表現するためにはまず把握していることが必要である、表現すること自身が把握ですらあるのである。なる程受動的な理解であっても或る能動性(積極性)は有つ、この理解の力によって、単に深く見えたものが初めて透明にされるからである。又それと同じに、能動的な把握であっても或る受動性(消極性)は
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