遠なる」学識を嗤う権利を持つ筈はないであろう。常識が学識に対して知識の価値を対等に争い得るのは、ただそれがこのような独立の価値ある積極的知識としての常識である場合でしかあり得ない。人々はただこのような常識のみを専門的学識に対立させることが出来る―― bon−sens。故に又この意味の常識的概念[#「常識的概念」に傍点]のみがそれに対する専門的概念[#「専門的概念」に傍点]と対立する。吾々はかくして初めて日常語と専門語との区別――吾々が好んで用いた処の区別――を正当ならしめることが出来る。又かくして初めて常識的概念を分析すること――それはやがて必要となる筈である――に理由を発見することが出来るのである。何となれば、もし日常的な常識的概念が専門的概念の不完全なものに過ぎないならば、前者の分析は要するに後者の分析の不完全なものに過ぎないこととなり、常識的概念の分析は何等の結果を約束することも出来なくなるであろうから*。
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* スコットランド学派の常識哲学はそれ故、常識の知識としての独立を主張することによってのみ成立する――“sound”common−sense.
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 常識的概念と専門的概念、従って日常語と専門語、との区別とその対等とを吾々は今見た。恐らくあり得べき一つの重大な誤解を警戒しておく必要があると思う。専門的概念は学識に於て知識としての価値を有ち、之に対して常識的概念は日常性[#「日常性」に傍点]に於て独立の知識としての価値を持つ。人々はこう思い做すかも知れない、日常性[#「日常性」に傍点]とは世間的により普通[#「普通」に傍点]に行なわれること――普通性[#「普通性」に傍点]――を指すのである、と。もしそうすれば専門的概念もそれが普通一般に行なわれる時には常識的概念となり、そしてあまり普通一般に行なわれない概念は常に常識的概念ではあり得ないということにならなければならぬ。併し吾々にとっては普通性[#「普通性」に傍点]と日常性[#「日常性」に傍点]とは異る。前者は一般に行なわれているという単なる与えられたる事実であり、之に反して後者は、一般に事実として行なわれている処のものが実は[#「実は」に傍点]何でなければならない筈であるかという課せられた課題なのである。であるから専門的概念が如何に普通一般に
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