ならないが併し変換するためには予め変換されるものがなければならぬ筈である。何物かが変換されるのでなければならぬ。今もしこの「何物か」が他の一つの要素Bであるとすれば、AはBに依存することとなって之は無意味に終って了う。それ故この「何物か」はA自身に就いて見出されなければならない。この意味に於ての変換される「何物か」が必要となる。処がこのことは一般的な群そのものにとっては不必要であると云わねばならぬ。即ち之は変換群に付加された特殊の内容に外ならない。この特殊の内容とは何か。今この特殊内容を一般的に決定する代りに一つの条件を入れて考えて見よう。即ち適当な――吾々が常識的に幾何学と呼んでいる処のものを成り立たせるような――変換群を撰ぶとき、それは Untergruppe として、最小の群即ち主群を含んでいる。私は主群によってこの特殊内容の一端を窺いたい。主群とは運動、相似変形及び Spiegelung、並びにこれ等の結合からなると考えられる変換群をいう。併しこの運動は運動するものがなければ意味がない。縦え図形を予想しないまでも少くとも位置というものだけは許さなければならぬ。他の二つに対しても同様に夫々絶対的な大きさ及び要素の順序を許す必要がある。そして許さなければならぬこの三つのものこそ主群が有っている所謂特殊内容に外ならない。更に主群に於てそれ自らに変換する要素――同一要素――を考える時、例えば運動に就いては位置の不変が丁度之に相当するであろう。併し位置の不変ということは無限に多く――此処にも彼処にも――あると云わねばならぬ。然るに群の同一要素は定義によれば唯一つの筈である。処が矛盾とも見えるこの結果は却って変換そのものと変換されるものとの区別を明らかにするものに外ならないと思う。之が特殊内容である。それ故変換群は少くともこのような意味での特殊内容を含む可能性を有っていると云わなければならぬ。変換群が幾何学の根本的概念となるとすれば、茲に群そのものの外から之に付加された偶然な内容が潜入しているのを見逃すことは出来ない。であるから幾何学が群論に還元されるということは少くともそれが群論の総論に還元されることではない。事実幾何学はクラインの云うように変換群に就いての不変量理論(Invariantentheorie)なのである。即ち変換論とも云うべきものなのである(上掲著書参照
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